短編:ぼくらの補完
たゆたう波の間。
起きているとも寝ているとも言えない意識。おぼろげな意識。
そこで僕らは手を繋いでいた。
波は気持よく、そこに浮かんで溶けているような心地がした。いつしか僕は何も考えず、そこにただ「在る」ようになった。
隣にいるのは誰?
わからない
温かい手?冷たい手?
時折強く握られるようにも感じる
しばらく漂い、いつしか砂浜に打ち上げられた
「ねえ、・・・?」
何かが聞こえたが、言葉がうまくわからなかった。
「ねえ、・・・した・・ある?」
よくわからない
「よくわからないよ。なんて言ってるの」
自然と言葉が出てきた。
しばらく無言のあと
「ねえ・・・キスしたこと、ある?」
キスしたことある?そう聞こえた。
あるようなないような。
「よくわからない」
「ねえキスしましょうよ」
いきなり唇が押し付けられた。息ができない。
顔を見たら、知っている娘だった。嫌いじゃない。キスをしている。
「で、どうなのよ?」
「うーん、いきなりわからないよ」
意識はまだおぼろげだ。
そしてまたたゆたう。
砂浜で手をつないだまま、その娘と寝転んで夜空を見ていた。
夜空は血に染まり、星が流れ、美しかった。
今の日本の状況は民主党政権末期に似ている
今の日本の状況は民主党政権末期に似ていると思うのです。
あの時、日本人は誰もが「こいつら馬鹿か」っていうふうに政府首脳を思っていたわけですが。今も同じよう安倍は馬鹿かみたいな勢いで大衆の正義が振りかざされるわけです。
しかしこれってそもそも大衆はちゃんと考えているのか?
結局リフレ政策を学んでいる人もいないし財政学を知っている人なんて市井の市民のごく一部しか存在しない。
あるのはネットの記事やTwitterのつぶやきなど、根拠薄弱でエモーショナルな煽りのものばかり。それらを見て、
「うちの首相はバカなんだ!どうにかしてくれ!いっそ殺す!」
みたいな勢いなんですよね。
それってどっちがおかしいんだって思うわけです。
この問題はアニメ「ガッチャマン・クラウズ」描かれ、社会風刺的に民衆のダメさ・バカさを皮肉っておりました。
これらに任せれば政府の意思決定もうまくいくんだって僕らは思っていたわけです。いまも思ってる人が多い
つまりいまの首相制度は仕方なくあるのであって、将来的には大衆や強い意味でのA.I.がよりスマートな意思決定をこなすという算段です。どうもそれは楽観的すぎやしないかと思うんですよね
選挙がありますが、さーてどうするか困ったなって感じですわ。前回は経済政策一本でわかりやすかったんです。
いまこそ「一般意志2.0」を問う
ガッチャマン・クラウズ鑑賞会とかやりたい(笑)
SF小説『幼年期の始まり』(Childhood's Begin) 設定
SF小説『幼年期の始まり』(Childhood's Begin)
「神は死んだ」
と思われていた。
が。神は昼寝をしていただけだった
22XX年
突如神は起きた
「よぉ人間ども?最近どうしてんだよ?モーセとかキリストとかムハンマドとかに言いつけ守ってんの??」
何も言えず、人類は太平洋上に現れた巨大飛行物体に核攻撃を開始した。
「いってぇぇええ!!なにこれ!!?こんないってえ武器お前ら持ってたっけ??あ??マジふざけんなよ!!殺すぞ!!」
アメリカ・ロシア・中国・欧州連合大統領は殺された。
これが後に言われる。「NEON GENESIS(新・創世記)」
の始まりであった。
N.G. 0年 各国首脳の死亡
N.G 10年 国際紛争による人類大量死
そしてN.G. 15年
死者は蘇り始めるのであった。
設定
・サンクチュアリ
太平洋上浮かんでいる神の要塞。本陣。
サンクチュアリは本来地球上ではなく全宇宙の中心となる。
しかし、目覚めた神は地球に拠点を移し居座り続けている。サンクチュアリは常に宇宙の八方にも通信を送っており、秩序の維持活動を行っている。
・神域聖戦部隊
太平洋上浮かんでいる神の要塞、サンクチュアリを守っている部隊。聖書においては天使と言われた者達。しかしその風貌は天使と言うにはあまりに醜く、悪魔に近い。近づくものを毒気によって倒し、さらに感染力のある毒を放つ。神の血を飲み、その偉力を受け継いでいるために各種の神通力を持つ。
サンクチュアリの近辺に配備される部隊は最も忠実で強力である。
・神域の堕天使達(Fallen Angels)
神の血を飲むことで「自我」の片鱗を持ってしまった天使達の一部は神に疑いを持ってしまう。そのような者達はサンクチュアリから追い出され、また脱出した。彼らを神域の堕天使と呼ぶ。
堕天使は神のいぬ数千年の間眠りについており、地球上、銀河系の各地で化石として存在していた。半存在・半霊体である彼らは霊的媒介によって再び現れることができ、彼らを呼び出した人間に一部
忠誠を誓っている。
・真実の使徒達(Children of Men)
キリスト教史に描かれる使徒の霊体昇華した者達。彼らは神を殺すことを企て、神をさらに高次の倫理性を持つ存在へと進化させることを目論んでいる
・神域奪還戦線(ヒジュラ)
人類によって結成された地下組織。神域に侵入し神のちからの源泉となる秘宝を奪うことで神域を手に入れようとしている。彼らは研究に寄って神の血の疑似合成物を生成することに成功し、人間を「半天使化」することができる。
・呻く死人(Moans)
神の力によって蘇った死人達。
生前に強い怨念、または神への忠誠を誓った人間たちが特に強く蘇る。
彼は人間の言葉を話さず、呻き声、唸り声によって意思疎通をはかる。一部のMoanはラテン語、古代語を話すがそれはコミュニケーションには使われてはいない。
神に敵対するものを容赦なく殺戮する。筋力・跳躍力は人間の数倍あり、オリンピック選手すら歯がたたない。銃火器にも痛みを感じず、頭を潰されてもしばらくは動き続ける。
神が現れて後、このMoansによって殺された人間が最も多い。
【雑文】男性にとって結婚とは「購買」であるか?
多くの年収を稼いで、結婚しているというのは
逆に多くの年収で結婚生活というのを購入している
ということなのだろうか?
現代社会において、家庭を築いて子供を作るということは「強制」ではなく、「選択」である。もちろん選択と言いながら多くの人間がそうしたいと願っているのだから、完全な自由意志の問題ではない。しかし昔の強固なイエ制度や慣習が壊れ、生殖が共同体の存続に関わる問題として扱われなくなった。
結婚・出産は自己決定の問題となって現代では扱われている。
つまりそれらは市場的な問題である。
そのような中で、個人に必要な資本よりも多くの資本を稼ぎ、それに基づいて家族生活を営む資本金にしようとしている。これは一種の購買行動として分析できるのではないかと思う。
経済学の研究の中で購買行動として婚姻制度を分析した研究があるのかは知らないのだけど、単純に考えて今の社会では購買の中に入っている。資本が結婚生活の重要なファクター(支出)で、それをするかどうかが選択制ならば、それは市場での購入である。
こういう観点から考えてみて、もちろん収入すべてが結婚への購買意欲ではないものの、何故多くの人間がそれほど資本蓄積に取り組まねばならないのか。
これは婚姻のモラル、道徳・慣習がさらに崩れ去り、男女の経済的な扱いの平等化も進んだ先には、婚姻が購買でなくなる日も来るだろう
婚姻は単純なマッチング問題として扱えるのかというのは疑問
低い年収の人にはそれ相応の最適なマッチングが設計できるということはないと思う。
マッチング理論は経済学で最近流行りっぽいけど、そこら辺詳しい人いたら教えてください。自分はあんま勉強してないんでわkらないです
生きる意味わからん的なこと
何故生きているのだろう的なことをまた考えていた
正確には考えるというより感じていた
少なくとも理性的には回答し得るはずのこの問題だが、とりあえずの答えは理由をつけようと思えばつけられる
曖昧な奴で言えば「世界をより良くする」「不幸を無くす」「楽しむ」「女」とか
私が言いたいのはそういった「現世的に閉じた」生きる理論などではなくて、私の心が感じ取っている虚無に対する最終的な解決である。
これはもはや出家しろとかそういうレベルなんだろうが、特に出家したいみたいな欲求も無いし、自分が今なにか瞑想修行をセルフでやっているわけではない。
去年は瞑想指導を受けたりしたが、結局続かず、その後指導してくれる人にも会いに行っていない。
では私は心の平安、悟り的な何かを放棄してしてしまっているのか?なぜ?
かくも不安や緊張、苦痛の多いこの世界で、悟りを目指さずに正気でいきていけるだろうか?
それについて自己分析をする。
まず、人間の性質として
・ルーチンの中に放り込まれると不安を無くす
というのがあると思う
さらに
・生物的欲求を満たしたい限り、意味は必要が無い
という第二の人間存在の性質もある
これは動物や植物、すべての生命体に備わる基礎的な「生きる力」である。これなくしていかなる生存競争、その結果の多様性もあり得ず、すべての生物は勝手に死んでいくのみである。
では私は今これらの2つの要因によって、生きる意味への問から「逃避」「避難」することができている状態なのだと思う。
それは「望ましい」か「望ましくない」か
こういったことに悩んでいるのだから、本来望ましくないと私の深層心理では感じ取っているのであろう。
世の中の多くの人間にとって生存理由、レゾン・デートルの問というのはほぼ上記理由で解消、疑似消滅してしまっているのだ。
つまり生きる意味からの逃避でもあり、避難でもある。
生きる意味の問は我々を丸裸にし、世界の本質にある無根拠さ、残酷さ、無意味さから目を遠ざける。我々は我々の閉じた世界で生きていることが幸せでもある。
しかし、限界状況が起きた場合、これらの意味が強く求められる
病気、事故、家族や恋人、友人などとの離別
失業、経済的困窮
戦争、生命の危機
こういった場合に陥ると、我々は驚くほど明晰に
「なぜ生きているのか」を考え始めるのではないか
私はいま、そういった限界状況と、ルーチンな日常とを行き来しているのではないか。
ルーチンな日常では、その行いをきちんとこなす必要があるから思考は停止される。また、限界状況は人間を著しく強いストレス状況下におき、精神を侵していくために、なるべく避けられる。
そういうリズムが存在しているのではないかと思われる。
こうやって考えてみると、人間というのは一体何なのだろうかと思う。動物、生命体として維持していくためにルーチンが必要で、それなくして基礎的な物質的基盤は維持されない。だが、一歩でそれらの基盤を「維持させ続ける理由」、そもそも「なぜ物理的に維持しなければいけないのか(何故生きるのか)」という問もそばにあり続ける。
そしてそれは光と影のように、生物本来の「生と死」という宿命から逃れられないように、表裏一体なのである。
病気は不幸、不幸で避けるべき。貧困も、孤独も、忌まわしいもの。ネガティブな思考も人生に有害なもの。
だがそれら全ては人生本来に備わるもので、誰もが避けられない。
病人をいくら嫌い憐れもうとも、数十年、あるいは数年で自らも同じように死へと向かっていく。その基本的な事実から目を背けており、では病人はそんなに悲しいのか?死ぬのは、病気は自然現象なのに、なぜ受け入れること、当然であることを認めたがらないのか?
そうとも思う。
人が死んだら、それは自然のことだ。
死ななかった人がいたら異常だ。
生きる意味がわからなくて、それを問うのも普通だ。なぜなら数千年以上前から人類はそうしてきたからだ。
だから、だからどうなんだろう
結局、生きる意味が無いのが普通ってことで、苦痛とか人生の嫌なこととかすべて耐えて死んでいこうっていうのが、普通なのかな。。
じゃあ僕達がやっている日々のルーチンって一体何なんだ。お金を稼ぐとか、結婚とか、子供?名声とか?長生きとか
一体全体、なにをやっているのか誰が理解しているのだ
- 作者: ヴィクトール・E.フランクル,Viktor E. Frankl,諸富祥彦,松岡世利子,上嶋洋一
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「007 スカイフォール」:もはやスパイ映画は時代遅れだ
007、スペクターが最近上映されていましたね(まだ見てない)
ストーリー上、先に公開された「スカイフォール」が関連があるらしいのでそちらを見ました。
Amazonプレミアムで無料だったからというのが本当の理由ですが。
いままで007シリーズは結構見てきたと思います。もちろん最近のもので、ピアース・ブロスナンとかのやつなんですが、やはり王道スパイ映画、アクション映画で、善悪もはっきりしていたように思います。
スカイフォールは、いままでと違うんです。
まず、MI6が非常に弱々しい組織なんです。トップにいるMという女性(ママと呼ばれる)は、意固地でミスを誘発するタイプで、それがきっかけで政府の審問会に呼ばれるハメにもない、事実上引退を勧告されているようでした。
そして、007は冒頭で仲間に撃たれて川に流れて行方不明。仲間もヘタレなんですね。
そして悪役がすごい。元MI6の諜報員であり、MやMI6に強烈な復讐心を持ったキャラクターでした
MI6に見捨てられた過去と、壮絶な苦痛の体験から生まれたと思われる復讐の情念が垣間見えて、狂気を感じます。
彼はMI6本部のシステムをハッキングし、情報流出させたうえ、爆破テロまで仕掛ける奴。
彼の言動は面白かった。ああいうイカれてるキャラって、ダークナイトに出てくるジョーカーのような奴でした。
世界は変貌し、かつての古い「スパイの黄金期」というのから転換しなくてはならないMI6と、007の老いていく体。もはや古い世界の存在である彼ら。そして007という映画がもはや賞味期限であると言わんばかりの、自虐的なセリフの数々。 可哀想になってきました。
そんな年老いた007。なんとか老体に鞭打って頑張ってましたね。最後の籠城作戦は見事だったと思う。
「これが一流ハンターの戦い方だ!!(違」って感じでした
007/ダニエル・クレイグ ブルーレイコレクション(3枚組) [Blu-ray]
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スペクターも見てみようと思います。
幸福とは何か
出世間とは、社会に参加しないことで、社会から得られる一切の価値体系を放棄することである
通常の価値体系、いわゆる世俗的幸福を破棄する
出家というのはそういうもので、本質は「絶対的幸福」である
ブッダの得た幸福とは我々が日頃気にしてあくせくしているような、そういった小さいゆるぎやすい幸福ではない
揺らぐことの無い、世界に普遍した幸福概念である
我々にとって生きるとは、幸福とは一体なんなのか
僕は脳を取り出してキモチイ信号を脳に与え続ければ幸福だと思う
それ主観的に気持ちいいし、なんら不安も苦痛もない。まさに幸福だ
ではこれと「本当の幸福」とは何が違うのか?
違わないと思う
それはなぜか、
「気持ちよさ」「快適さ」を幸福と同義にしている根本からの過ちである
無明、無知と言えよう、
快適さ、他者から見た心地よさ、
それらはなんら幸福ではないのだ。
本当の幸福を生きて行くにはどうすればいいかを探求し続けるしかない
もう誰かが教えてくれる幸福とかにこだわるのは嫌だ