語り
ウォーキング・デッド シーズン6見終わった
存在のレイヤーの話。自分が現実のレイヤーから若干ずれてるよ的な。
「この歳になるとよくわかりますが、人間はたくさんの情熱を生きられません。たくさんの思想や、たくさんの運命を生きられないと言ってもいいでしょう。自分と本当に関係した思想でしか生きられません」(遠藤周作)
http://www.bookbang.jp/review/article/518689
この歳になるとすごい「よくわかる」
結局政治や大きなことをいくら語っていたとしても、それが自分の生活実感や生きている日々の足場が関係なければ、それは特に執着の無い問題となる。
だから多くの人間は世界・国家というメタレベルの現実と、日々の生活・家庭という現象(表象)レベルの現実の両方がある時に、後者に寄り添ってしまう。むしろメタレベルの現実は現実ですらないという振る舞いをすると思う。
これはより大きな枠組みで捉えれば、生きることも死ぬことも、宇宙が開闢し、100億年の栄枯盛衰を経て再び無へと帰ることも、それは究極の「現実」なのだ。
僕は昔から、この「究極の現実」のことをよく考える。
だけど、人生は、すくなくとも感覚においては、低レイヤーの生老病死の現実に振り回されるのだ。
その二重の現実・多重の現実を前に、いっそ最上位の究極の現実に飲み込まれてしまいたいとすら思う。
「なぜ生きているのか?」
という問には、低レイヤーでは「楽しむため」などの答えはあるが、高レイヤーにおいては「存在論」になる。
なぜ存在は存在しているのだろうか?消滅したらどうなるのか?なぜそもそも存在はこうなのか。
遠藤周作の上の言葉とはだいぶ逸れた話になってしまったが、自分が生きられる現実と、生きたいレイヤーの齟齬が、深刻であるのだろうなぁと今は思う。
<スキあらば自分語りと電通の人の話>
<スキあらば自分語りと電通の人の話>
大学:在学中に発症した鬱で1年休学
大学院:鬱で2年くらい休学
という踏んだり蹴ったりで、大学院卒業したのが2013年。
その後も踏んだり蹴ったりなので、基本的にまともな人生歩んでない。
ただ、人に恵まれたので大学院は卒業させてもらえ、いまとなっては感謝している。(が、もはや大学も院も研究室飲み会とかには一切行っていない)
とはいえ、正直何もやる気が起きない状態が長くありひきこもりも長かったので、一般的な就労形態(正社員等)が身体的精神的に無理とかがある。(まあ環境による)
なので、電通の自殺した人。こういう挫折もなくて当たり前に無理をする習慣が合った人ってのは、いざという時自分を追い詰めるしかなくて、可哀想だと思った。
一度鬱とかで、完全に自分の制御不能な病に陥っている人間は、自分のもろさとか、逃げることの大事さとかを知っていると思う。逃げないことで結局自分の精神も身体も悪化するのだから。
エリートコースの人が簡単に社畜化する。その現象ね。
あと、論点として、今回の件、パワハラ・セクハラは法的な責任があるだろうけど、個人の裁量が委ねられてる労働時間は自分でコントロールできない人にも責任はあると思う。これは労働契約において奴隷制を採用していないし、いつでも逃げる権利は確保されている。
なので裁判でそれが違法であることにはならないのではないか?
問題は、仕事はだれでもいつでも辞めたり無理なら変えたり、っていう当たり前のことができていない日本のムード、いわゆる「社会の常識」の根底にあるものなのだ。
だから、最終的には、自分の中に深く根付いている規範意識というのをきちんと扱っていかないと、最悪の結果にまで自分を追い込むんです。
なので、いろんな甘え方ができるっていうのを、世の中で提示する人が増えればいいと思う。自分も、鬱とかひきこもりで息詰まって自殺しそうだったので、そういう困ってる人がいたら力になれるようになってみたいなーというのがあります
日記:「彼氏彼女の事情」と「オブリビオン」:「庵野秀明の事情」
昨晩見た「彼氏彼女の事情」の18話の影響で、精神的ダメージを受けてうなされた件
飲酒後うつの影響もありそうである・・・。
創価学会バーなるものに行ってしまったのが原因か。罰を受けた
脚本はオリジナルで、監督が理系出身の建築系の人で、非常によくできているSF作品だ。
ローマの詩人ホラティウスの引用などもあったりしているし、この物語構造自体が神話的モチーフだ。
Oblivion=忘却 という意味だが、主人公が忘却していた過去の自己、真実の自己に目覚めるというテーマは普遍的な神話性を放っていて、泣けてくる。
世界は実は自分が思っていたものと正反対だった、ということに気づく話であるし、よくできている。
「彼氏彼女の事情」はED曲からもわかるように、「夢の中へ 行ってみませんか?(理想的恋愛と家父長制の幸せな世界)」というテーマだと気付いた
エヴァンゲリオンが徹底的に「夢から現実へ叩きだされる」話だったのに、このカレカノでは、見事に主人公の青年が女の子に癒やされていっている。これはたちの悪い夢だ。こんなの少女漫画の幻想だ、と庵野秀明はどこまで思っていたかしれないが、エヴァでは描けなかったそんな「夢」が、彼の創作を刺激していたのだろう。
以降、「ラブ・アンド・ポップ」などの実写作品では、援助交際する女子高生を描いてみたりしていて、「リアルな女の子の心なんてこうだよね」という勢いで作っている
徹底したリアリズムというのはシン・ゴジラでも発揮されているが、そのリアリズムにはまず、夢への退行も含まれているのだ。
「エヴァンゲリオン:破」が、本当はそうであって欲しかった「シンジ君」を描いた夢であったとすれば、「エヴァンゲリオン:Q」は、夢を破壊して現実をつきつける意味のある作品だった。
では、シン・エヴァンゲリオン劇場版はどうなるのか?
夢の世界に帰ることは無さそうだ。それえが夢だとわかっているのだから。
ならば、リアリズムの果てにある世界、それは夢だか現実だかわからない世界だが、それを描くために庵野秀明は旅をし続けなければならないのだろう。
「いまを生きる」というテーマは繰り返し繰り返し突きつけられ、キャラクターである碇シンジは、繰り返し繰り返し、幸福の絶頂感と絶望の間をさまよい続けるのだ。
シン・ゴジラがエヴァだったら
場面:ゴジラ凍結完了後
そびえたつゴジラ。全身を防護服に身を包んだ調査隊が調査をしている。
遠く離れて、それを双眼鏡で見ていた女。
「カヨコ・アン・パタースン(石原さとみ)」
の電話に非通知着信
「はい、パタースンです。」
「わたしだ。そちらはどうなった?」
「日本の役人と政治家がうまくやったようです。ゴジラは凍結、現在活動停止状態の模様です。」
「それで、コアは回収できたのか?」
「ええ、もちろん。少し手間取りましたが、博士の遺骨から回収できました。もう片方のコアも、現在部隊がゴジラから回収済みとの報告を受けました。ご安心ください」
「よかろう。今回はこちらの予測とは異なったが、結果的には凍結は望ましい事態だ。今後日本政府への協力に見せかけたサンプル回収もしやすくなった。
君はただちに研究所に帰ってきたまえ」
「わかってます。ただ、またすぐ日本へ、ですね?私も今後こちらで任務につきたいとおもっています。」
「察しがいいな、君を私は高く評価している。今後も君に指揮を任せようと思っている。今回はご苦労だった。」
「ありがとうございます。大統領。では。」
ゴジラのコアと変異前の博士のDNAサンプルをもってパタースンは国防総省地下研究施設へと向かった。
そこにはまだ小さく、しかし、いびつな形をした生命体のサンプルがいくつか存在していた。中には、ゴジラ第一形態も存在していたのであった。
続く・・・・。
公明党、創価学会、池田大作の相関関係(ざっくり)
細かく知りたい人はこちら。創価学会の発展や、政治との関連について細かく書いてます。