暗号通貨と自由

ゲームプレイ用に買ったグラフィックボードで仮想通貨のマイニングも始めた。

久しぶりにやっている

Zcashという匿名性の高い謎のコインがあり、それがそこそこ掘れるらしいからやってる。

いま1コイン単位で2万円くらいになっている

最近のここらへんの話題はついていけてないので頑張って勉強しないといけない。

匿名技術というのは今の世界で重要なテーマになっていて、もちろんそれは政治的な背景を強く持っている。

プライバシーの権利を侵害することが堂々と行われている事実があらわになってきて、保安のために個人の自由を侵犯しているところだ。

ビットコインや暗号通貨技術の大きな特性は、その匿名化技術にある。または、単純に言えば、現代ではAmazonで買ったものはそのデータを調べれば政府が簡単にわかってしまう

送金購入手段、履歴データを政府が抑えるということは何を意味するか?
これは経済的自由の侵害である

ミルトン・フリードマンはその著書『資本主義と自由』の中で、経済的な自由権の喪失は政治的自由を失うことになると述べ、共産主義勢力を攻撃した。

それと同じことが、いま「資本主義国家」で行われようとしている。ポスト資本主義国家は監視をベースにした経済的な不自由、個人の思想や活動への過大な干渉、政府による恣意的な制裁。つまり権力の乱用という事態に至っている。

経済的自由<=> 政治的自由 <=>思想・言論の自由 <=>内心の自由 <=> プライバシーの権利

などと複雑に相互は絡み合っていると考えている。

 

 

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

 

 

メモ:「<オタク>の逆襲」

「<オタク>の逆襲」というタイトルで短い文章を書きたくなったが、適当にメモ。
 
<オタク>とは90年代に「オタク」と呼ばれていたものであり、今の時代の「オタク」という言葉の意味するものとは異なる。
 
つまり80、90年代にあったオタクカルチャー、SFカルチャーが一度軽く死んだ。
 
しかし、いま復権しつつあるのではないか、という話
 
最近上映された「BLAME!」の映画版を見て思った(原作とは印象がわりと違ったけど世界観は一緒)
 
これはNetflix配信も決まっていて、海外にもファンが多いらしい
 
 
などなど、熱い作品がいっぱいあったのに、なぜいまのアニメは「つまらない」のか
 
答えは一つ
 
「日常系」だから。
 
アニメは大衆化し、陳腐化した。
 
そしてかつてのアニメに「オタクが熱狂した成分」とは何か。
それは
「世界への総合的な理解、世界への総合的な改変の欲望」
であると考えている。
 
政治や国家、戦争、SFによる未来の破滅した地球の描いていたものはまさにリアルからの延長で、切迫した想像力が生み出したものだ。
 
いま閉鎖しているように感じるその想像力は、90年代を過ごした世代、それ以前からいた世代によってまた再生産される。
 
文化はこのままでは死ぬというか、まったく面白くない。海外ドラマを見ていたほうが面白い
海外の映画を見ていたほうが面白い
 
しかし虐殺器官BLAME!を見ると、
 
「日本人だけでほぼ作ってるアニメ」であり、なんだこの単一民族国家、やばいなと思う
 
世界中の才能が集結しているアメリカの西海外でさえ作れないものがここにある。そしてそれらは90年代にすべて源流があった。
 
そう思うと、なんとも不思議な反動を感じる。
 
行動が大事だと言われてデモがあり、それがうまくいかないことや、そもそも世界像・政治像を失った市民たちは日常系のドラマやアニメに退避した。自分たちの幸せを守ることすらできず、政治や国家、世界に対する創造性を失っているのだ
 
あと小島秀夫もいるんだけど、彼は50代だから庵野秀明と同じくらいの世代、それくらいの時代を生きた人間の政治的な経験とか歴史のリアリティがいまの作品の源流になっている
 
あとは単純にSFが黄金期だった。様々な一流作家がすごいSFを作ったり、映画化されていた時代。
 
それもいまの時代状況とだいぶ違う点である。ハリウッドがつまらなくなったということだけど。良質なSFが減った
 
見る人も少なくなった
 
【ポリゴン・ピクチャアズ 守屋秀樹氏 × Netflix ジュリアン・ライハン氏トークイベントレポート】 劇場上映・Netflix配信を同時に!「劇場∞Netflix」プロジェクト - クリエイターのための総合情報サイト CREATIVE VILLAGE
 

映画「Moonlight」を観た感想

「Moonlight」はアメリカの貧困地域の黒人コミュニティを描いている

主人公の少年がいかにしていじめられて無気力になって成長していくか、という描写をひたすら描く。ゲイであることは問題の一部でしかないかもしれない。

そういう意味で、イデオロギーばっているわけでもないし、なにかの道徳性を押し付ける映画でもなく、結論がハッピーであるかもわからない。それがすごく良いと思った。

アメリカという国で、白人と黒人で分断されているというのもよく描かれている。白人の人物はほとんどゼロ。貧困地域で、黒人しか出てこない映画なのだ。現代のアメリカを描いた映画なのに。

これがアカデミー賞??って前半は思ったし、アカデミー賞と聞いていなければ20分くらい観て辞めてしまうだろうなと思った。黒人社会のドキュメンタリー風映画だから娯楽性は少ない。それこそ「ラ・ラ・ランド」みたいなミュージカル演出もエンターテイメントな演出も皆無。恋愛も皆無。本当に皆無なのである。

でも、これがアカデミー賞に選出された理由は見終わってよくわかった。これは文句なしに素晴らしいなと。

いまのアメリカだからこそ、こういった「苦しむ人間の姿」を人種的な偏見や性指向の偏見への差別を踏まえて、空気を写しているかのように、自然と、ウザくなく描写する。だけどどうなるのだろうと観客すべてが息を飲む。

そんな映画なのだ。

日本人だから黒人社会のことなんて見たことも無いしわからないけれど、そこで描かれているのははるかに政治を超えた政治のように思える。

黒人のための黒人による映画。

すべての人種、差別を受けている、それでも死なずに生きている人のための映画。

上映部屋も小さく。人は多くなかった。カップル向けでも無い。
受賞後の日本版のPVは反吐が出る作りだった。

 

受賞前のコレのほうがいい

 


アカデミー賞候補作!『ムーンライト』本国予告編

男らしさと弱さ

「男らしさ」が苦しい男たち。なぜ男性は自分の弱さを語れないのか? https://www.buzzfeed.com/satoruishido/otoko-mondai?utm_term=.hcb2xpadX

 

これを読んでの雑記。

 

歴史的に言えば、文学(文字表現に限らず)は弱音を吐く場所の一つだったと思う。

 

文学や映画なども基本的には男(みんな嫌いな「おっさん」達)がマジョリティで制作される世界なので、そこでの男の自意識の中には当然苦痛を語る当事者がいる。

 

 その饒舌さというのも基本的には文学やサブカルチャーでしか引き受け先がないので、うまくそれを表現した作品(エヴァはまさにそのキラーコンテンツ。あと新海誠。)が大ヒットしたりする。(太宰治とかはどの程度かよくわからないが。)

 

2000年以降自意識系やセカイ系(まさに新海誠!!!)として揶揄され殺されてしまった当事者の弱音というのは確実にあって、以前抑圧構造を保ったまま存在し続けている。

 

参考

https://togetter.com/li/1022432

 

@hazuma

シン・ゴジラ君の名は。を見て思ったのは、ひとことで言えば、オタクの時代は終わったんだなということですね。第一世代のガイナックス系オタクと第二世代のセカイ系オタクの想像力が、同時に社会派になりリア充化し、オタク特有のぐずぐずしたどうしようもない部分がすっぱり消えた。

 それはいいことなのかもしれないし、悪いことなのかもしれない。いずれにせよ、長い間オタクコンテンツを見てきた1971年生まれの人間としては、今年はのち転機として振り返られる年になるだろうなと思い、自分の人生と重ね個人的にいろいろ感慨を深めました。

セカイ系美少女ゲームの想像力がリア充キャラを主人公に据えることで奇妙にも国民的評価を得てしまった、という渡邉くんの分析はまったくそのとおり。ただぼくは、この「あと」になにが来るかという点では楽観的ではない。君の名は。は、一つの時代の始まりというより終わりを告げる作品に見えた。

 

ネットの虚しさ

他人に認められたい、他人に同意してもらいたい。

最近そういうブログや記事ばかりでうんざりする。
もっと自分の内面をさらけ出して、それでもいいじゃんと

僕は居場所が無くなったと思う。

以前ブログやっていたときのようなネット空間ではなくなった
TwitterFacebookも、息苦しい。

ネットで何も報われない、救われない。

そういう感覚しかない

いくら何を問うても、帰ってくるのはエコーばかり。同情が欲しい、そうなんだろうね。

 

無題

普通の人生というのがなんなのか、それが日本と海外ではぜんぜん違うだろうし狭いのかもしれないけれど。

自分の人生にとって大事なことはなんなのかはもう忘れた。大事だったことはすべて無くなったきがする。
だからこそ死んでもいいと思うわけだし、やり残したことや未練などもない。今日頭を撃ち抜かれても、それでも特に後悔はないだろう。

ならば自分は何によって生きるのか。なぜ生きなければならないのか。この苦痛に満ちている世界で、何が私を生きさせるに値するのだろうか?快楽?お金?女?食べ物?

いずれも別に死んだら関係ないし、いつか死ぬ人間にとっては一時しのぎの快楽、麻薬、覚醒剤となんら変わらない。

ならばそれでもなお私にとって価値のあることなどあろうか?まったく思いつかない。思いつかないのだから現状は無いのだろう。だからそれを探し続けるのか?それだけどんどん疲弊しているのを感じる。

僕は絵を書きたい。アニメや動画作品を作りたいとも思うが、それは人生ではない。

生きることに必要なことなんて、究極何も無いんだと思う。だから、アメーバだってゴキブリだって、家畜だって、生きることに何も悩んではいないのだ。

彼らは賢いのかバカなのか?彼らは世界を認識できず言葉で考えることもできないから、自分の存在や生きる意味について考えることができないくらい阿呆なのかもしれない。では地球上の大多数の人間も特に考えてなどいないのだから阿呆なのか?
阿呆でなきゃこの過酷な世界を生き残ることなどできないのだろうか

人生、ピストルで簡単に追われるのだし、実際そうしてる人もたくさんいる。だからなんだというのだ。寿命で死ぬこととピストルで死ぬことに大きな違いはあるだろうか?どっちにしろ死に、何も持っていくこともできないし、死んだ後のことなんかわからないのだ。

統合失調症と原始社会のシャーマニズム

なぜ統合失調症が100人に一人という高い確率で発症するのかについて疑問です。人類の進化において、このような傾向の遺伝子は淘汰されてしかるべきです。なぜなら統合失調症では現実認識も、現実対処能力も無くなってしまうからです。

しかし僕は思い当たるのは、人類の原始社会が「シャーマニズム」によって運営されていたことです。シャーマニズムとは、特別な少数のシャーマンがその預言や謎のヴィジョンを元に政策決定をしていた社会のことです。
このシャーマニズム型社会は現在でも少数存在するし、有史以前、3000年前ならたくさん存在していました。むしろ宗教的なリーダーを介在しない共同体のほうが少なかった。

だから、統合失調症、幻聴や妄想は人類の社会体制の本質何だとも言えるのだと思います。
3000年たって今。幻聴や妄想は淘汰されるようになりました。科学の時代だからです。

しかし、遺伝子は3000年くらいの短期では淘汰されません。もし現在の社会で不要であったとしても、その遺伝子要素が人類の遺伝子から消えるには1万年とかそれくらいの単位で時間がかかるのでしょう。人類は遺伝子より早く、知識社会を発展させ、技術が加速度的に世界を支配するようになってしまった。だからこそ、原始社会といまとのギャップの現れとして、シャーマンに近い統合失調症患者というのが多数存在するのではないかと思います。

 

 

マンガでわかる!統合失調症

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わが家の母はビョーキです

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