現代における「労働」の諸相

何かに没頭している時だけ自分が生きていると感じることができる

何もやる気が無い時、自分は死んでいると感じる

だから僕は極度の怠け者に見えるが、実際は極度の仕事人間なのだと思う
だから壊れやすいと、思う

つまり、その気ななったら、お金なんて関係なく、いくらでもやってしまうのだ

そもそも、本当にやりたいことや、没頭する幸福感に比べれば、お金による報酬などというものは、ほとんど用をなさない

スティーブ・ジョブズは、晩年年収1ドルで、アップルのCEOを務めていた

本当は無給でも良かったらしいのだが、それだと法的な問題があり、仕方なく1ドルで仕事をしていた。

これはもはや通常の「労働」ではない。自己の欲求に基づく行為であり、ビジネスの名を借りた自己実現である。

彼は禅僧に会うために日本に何度か来日している。彼の本質は宗教的行為としての「仕事」。プロテスタンティズムに代わる宗教的行為としての労働である。

今の社会は多くの人間が金のためだけに仕事をしているのではない。
本質的には、自己満足、自己実現、社会的承認のためである。

その中に「宗教的」とも言える倫理性が内在している。
だから究極は、仕事は金を稼ぐため「だけ」ではない。今の世の中に必要な「労働」はもはや完全に飽和しており、社会の恒常性を保つための労働は非常に少なくなっている。
では何を生み出すことが人々の「勤労」足りえるか。
それは各人が創造性を発揮し、自らの仕事をより大きな歴史的事業へと結びつけるというビジョンである。

日本やアメリカなどのような「豊かな社会」では、人間は「食うために働く」というレベルを超えた勤労の観念が発達し肥大化している。

それは、逆に言えば、この世の中に必要な労働とは異なる、「不必要な」労働がほとんどを占めているのではないか。

エンターテイメント、サービス開発、それら全ては「便利さ」や「娯楽」に基づくものであり、衣食住とは何ら関係の無いものである。

高度に発達した現在の文明における「労働」とは、そういった創造性を発揮することが評価される段階になっている。

もちろん、生活するための労働はたくさんあるし、農業や食、衣食住、安全のための仕事は必要であるが、それに従事している人間はごく僅かであるのだ。

ではなぜ多くの人間はそれとは異なる産業に従事するのか。
それは社会が衣食住以上のものを、求めているからだ
我々全ては、承認や自己満足によって生きているのである。
決して、食うためや長生きするために生きているのではない。
少なくとも僕は、長生きしようなどとは思ったことがない。
長生きということが至上命題であるはずがない。
人間にとっての幸福は、長生きでもなんでもなく、ただ自らの存在理由を、獲得することにすぎないからだ。

僕は存在理由、レゾンデートルを求めるために生きる
例え死期が早かろうと、若い内に死のうとも、長生きすることが幸福だとは断じて思わない。