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抜粋:ハンナ・アレント「人間の条件」

 

 

志水速雄訳、P498

 第六章 <活動的生活>と近代

―「労働する動物」の勝利―

 

すでに見てきたように、社会の勃興の中で自己主張したのは、究極的には種の生命であった。近代初期には個体の「エゴイスティックな」生命が主張され、近代後期になると、「社会的」生命や「社会化された人間」(マルクス)が強調された。この転換は、理論の面で言うと、マルクスが、ともかく活動する限り万人は自己利益のために活動するという古典経済学の粗野な観念を改めて、それを、社会の諸階級を鼓舞し、動かし、導き、そしてその葛藤を通じて社会全体を導くあの利害の力に転化したとき起こった。社会化された人類というのは、ただひとつだけの利害だけが支配するような社会状態のことであり、この利害の主体は階級かヒトであって、一人の人間でもなければ多数の人々でもない肝心な点は、今や人々が行っていた活動の最後の痕跡、つまり自己利益に含まれていた動機さえ消滅したという

 

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 

 

ことである。残されたものは「自然力」、つまり生命過程そのものの力であって、すべての人、すべての人間的活動力は、等しくその力に屈服した(「思考過程そのものが自然過程である(マルクス)」)。

 この力の唯一の目的は ― 目的がともかくあるとして ―動物の種としての人間の生存であった。個体の生命を種の生命に結びつけるのに、それ以上に高い人間能力はもはや何一つ必要ではなかった。個体の生命は生命過程の一部となり、労働すること、つまり自分自身の生命と自分の家族の生命の存続を保証することだけが、必要であった。生命による自然との新陳代謝が必要とせず要求しないようなものは、余分なものであるか、そうでなければ他の動物生活と異なる人間生活の特殊性という観点からのみ正当化された。たとえばミルトンの『失楽園』を、蚕が絹を吐き出すのと同じ衝動から書いたのだと考えられた。現代世界を過去の世界に比べてみると、この発展の中で失われた人間的経験は異常なほどよく目立つ。完全に無意味なものとなった経験は、観照だけではないし、それが第一のものでさえ無い。たとえば、思考は「結果を計算に入れる」ものになった時、頭脳の一機能となった。その結果、電子計算機のほうが私達よりももっとうまくこのような機能を果たすと考えられている。活動は、ただちにまずなによりも製作の観点から理解されるようになり、今でもそうである。ただ製作だけは、世界性をもっており、本来的に生命に無関心である。しかし、いまやそれもただ労働の別の形式として見られ、複雑ではあるがそれほど神秘的ではない生命過程の機能として見られるようになった。