無気力について


無気力極まりない
無気力についてはずっと悩んでいるが、解決策がよくわからない
小さいころから、〜〜のために生きる、毎日を過ごすということを慣れさせられたがゆえに、その何かに対して興味を無くすとかなにか押し付けられる価値に非常に怒りや拒否を感じてしまうと
自分が自分として主体化する「〜〜のためにこの今を生きる」ということが空っぽになってしまう
だから、作業をずっとこなすこと、laborに従事することのみが自分への救いになってしまう。では僕は日々労働しまくるしか救われないのか、それでも壊れてしまうではないか、
結局、自分が「何かのために」生きるという価値論に対して脱構築しなければならないのではないか。
絶えず私は〜〜のために今何をやっています。ただ刹那を楽しむことがメタ的に楽しいのではないのです、という無意識の底から来る根源的な感覚に対して、書き換えるなり、バランスを変えるなりしないといけないのではないか
だったら、もう生きるのと死ぬことの境目など本質的に存在しないとさえ言える。死ぬことももはやフローの中に自分を置くことだからである。

 

何がしかのきっかけで無気力がパターン化して何度も自分がそのループに入るきっかけが日々に常態化してしまっているのだ。

 

無気力の心理学―やりがいの条件 (中公新書 (599))

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