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存在のレイヤーの話。自分が現実のレイヤーから若干ずれてるよ的な。

「この歳になるとよくわかりますが、人間はたくさんの情熱を生きられません。たくさんの思想や、たくさんの運命を生きられないと言ってもいいでしょう。自分と本当に関係した思想でしか生きられません」(遠藤周作

http://www.bookbang.jp/review/article/518689

この歳になるとすごい「よくわかる」

結局政治や大きなことをいくら語っていたとしても、それが自分の生活実感や生きている日々の足場が関係なければ、それは特に執着の無い問題となる。
だから多くの人間は世界・国家というメタレベルの現実と、日々の生活・家庭という現象(表象)レベルの現実の両方がある時に、後者に寄り添ってしまう。むしろメタレベルの現実は現実ですらないという振る舞いをすると思う。
これはより大きな枠組みで捉えれば、生きることも死ぬことも、宇宙が開闢し、100億年の栄枯盛衰を経て再び無へと帰ることも、それは究極の「現実」なのだ。
僕は昔から、この「究極の現実」のことをよく考える。
だけど、人生は、すくなくとも感覚においては、低レイヤーの生老病死の現実に振り回されるのだ。
その二重の現実・多重の現実を前に、いっそ最上位の究極の現実に飲み込まれてしまいたいとすら思う。
「なぜ生きているのか?」
という問には、低レイヤーでは「楽しむため」などの答えはあるが、高レイヤーにおいては「存在論」になる。
なぜ存在は存在しているのだろうか?消滅したらどうなるのか?なぜそもそも存在はこうなのか。
 遠藤周作の上の言葉とはだいぶ逸れた話になってしまったが、自分が生きられる現実と、生きたいレイヤーの齟齬が、深刻であるのだろうなぁと今は思う。