ブッダたちの仏教

並川 孝儀 『ブッダたちの仏教 』を読んでいる。
昨年12月発売なので新しい。

初期仏教経典の研究者が一般向けに書いたものらしい。

内容ざっくり理解していると、どうも初期仏典と大乗経典を同列に置きたいロジックになっている。

昨今の初期仏教ブームにより、

大乗仏教(そもそも大乗経典)<<<<<<<< 初期仏教(初期仏典)

に価値がシフトしているのではないか?と思う。

大乗非仏説と言うのは昔からあるが、最近は上座部系の指導者も日本にたくさん入ってきているし、瞑想技法も普及してきている。自分もパーリ語を学んだり少し初期仏教の瞑想を体験したりしたが、日本仏教における仏教観とは根本的に異なるものだと認識している。

つまり初期仏教が原作なら、大乗仏教はメディアミックスされた2次創作、コミケ同人レベル(出演キャラや用語は原作っぽいけど、実際かなり違う)だということだ。

そういう流れもあるのだが、並川の研究というか他の本などでも書いているのは

「そもそも初期仏典すらゴータマの教えと言えるのかすら怪しい」

という話である。「ブッダたちの」とあるように、ゴータマブッダが仮に実在したとしても、彼の弟子達が数世代、数百年を経て編纂されたのが初期仏典であり、そこには多くの創作・追加要素があるということだ。そしてそれらのうちどれが「真のゴータマver1.0」の教えなのか判別が付かない。

推察できるのは、アーナンダなどに代表されるゴータマの弟子も同様な悟りの境地を体感し、それを弟子たちにも達成させ、その体験と感覚、言い伝えなどが数百年かけて体系化され、創作され、伝承されたということだ。では実際のブッダは本当は何を悟り何を言っていたのか?もはやわからん。

しかし仏教の基本的性質からして、すべての覚者(ブッダ)は同列の地位にある。ゴータマ(初代ブッダ)と数百年後の覚者(ブッダ)は同一視できるというロジックがある。

だから結局はオリジナルブッダが何を体験したかは弟子たちのフル主観解釈に委ねられてしまったということである。

このフル主観解釈が行き着く先は大乗経典、大乗仏教における
「これが俺の考えた最強の仏教だ!!」シリーズである。

日本仏教はほぼこれである。

そして実は初期仏教も日本仏教も等価であるということを筆者は言いたいらしい。(日本仏教界的には無難である)

そこは正直あまり納得できないが、幸せになれる人がいればその人にとってはそれが最強の仏教なんだから良いんじゃないかとは思う。とは言えそれはブッダの教えなのか?については疑問だ。

 

 

ブッダたちの仏教 (ちくま新書)

ブッダたちの仏教 (ちくま新書)