シン・エヴァ2回目を観ての雑感。
結局NEON GENESISだった件(ネタバレあり
ネタバレあり注意
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を見てきました。
メモ代わりに書いておきます。
・前半の農村描写
端的に言ってシンジが「マトモな人間(大人)」になるための描写であったような気がする。あと「社会に包摂されれば明るく元気になれるよね」というところを描きたかったのかなと思う。それが大人でありマトモな人間であるということを説明したかったパート。(そして庵野秀明自身がそうなったんだということを伝えたかったんだろう。)
アスカが終始半裸なのもポイントだと思った。それに誰もなんの反応もしない。なぜならそれが「大人的態度」であり、アスカがシンジに語りかけるのも「大人になれ」というメッセージばかりであった。執拗とも思えるアスカの半裸やサービスカットは、オタクに対しての挑発とも受け取れた。「お前らこんなんで喜んでんじゃねーよバーカ。女の裸くらい普通に見慣れろっつーの!!」みたいな。それがイラッとした。
・ジャーゴンの塊
シンジがヴンダーに乗ってからは人類補完計画阻止の戦いが描かれるわけですが、そこには様々な意味不明用語が詰め込まれて、単純にもう不快だった。アナザーインパクトとかアディショナルインパクトとか言い出した時点でもう草しか生えなかった。裏宇宙がどうのとかミサトが「新しい槍を作る」とかになってくるともはやSFとしての重みが無くなって悲しかった。設定上なんでもありご都合展開にしか見えなかった。
旧劇にあったような緊迫感も全くないし、SFとしての完成度という意味で僕にはちょっと拒否反応がありました。
・人類補完計画の意味
ゲンドウ君の人類補完計画に対する思いは結局「ユイに再会したい」で変わらずだった。ゲンドウのための補完計画というところ心理描写含めてよく描かれてた。むしろゲンドウにフィーチャーされすぎて重かったし別の男性孤独問題が提示されたように思われた。結局シンジの中にユイがいるということになったけど、それで救われるとは到底思えず、彼は救われてないんじゃないのかと思った。
・全員助けるシンジ君
まずアスカ(式波)も量産型だったという新事実があり、当然心に闇がある。アスカをまず救った。その過程でEoEのシーンを多用。アスカがシンジに「好きだ」と告りシンジも告ることで一件落着。(何なんこの展開お前ふざけんなよ?という感想)
そしてカヲル、綾波もついでに救い、なぜかゲンドウも救われ、全員めでたし。
・やっぱりNEON GENESIS EVANGELIONだった
オチが「ネオンジェネシスするんや」だった。「新たな創世記をやること」がメンタルの安定したシンジ君に委ねられてしまった。その結果、普通の世界に戻った。描かれたのは庵野の地元の宇部。完全に「は???」という感じであるがとにかくそうなのである。エヴァが存在しない、エヴァに乗る苦悩も存在しない、そういった世界を再創造したのである。それこそが「さらば、すべてのエヴァンゲリオン」というキャッチコピーの意味でもあった。ご都合主義的ではないか?
個人的には、もはや風呂敷広げすぎてエヴァという作品自体(庵野の黒歴史)を亡き者にしようとする企てに思えた。
ラストはマリと生まれ変わったシンジ君(=庵野)が新世界で仲良くしてる描写で終了。なぜアスカでなくマリなのかについてはよくわからないが、マリ=安野モヨコ説なら納得できる。
つまり、「庵野秀明はもはや過去のエヴァにあった、他者(異性)とのヒリヒリした関係の問題とかどうでもいいんだな」というのが伝わってきた作品です。庵野秀明補完を見せつけられただけという感じ、俺は少なくとも置いてけぼりを食らった感しかなかった。
・成仏した人しない人
僕はこうして成仏しなかったわけですが、成仏とはなんなのでしょうか?それは旧劇からの25年の間に、庵野秀明が農村で描いたような「マトモな大人」になれたかどうか、優しい他者に救われたかどうかにかかっているような気がします。そういう人たちは単純に感情移入して自分と重ねてカタルシスを得ることができたのでしょう。しかし、僕を含め一部の大人は「成熟の困難」の問題にぶちあたっており、恋愛・結婚・社会的役割を得る・子供を育てる、などのことを通過儀礼として走れ無かった人です。そういう人たちにとってひたすら「大人になれ」と言うこの作品は、単純に僕らを突き放し続けた作品のように感じました。オタクに「現実に帰れ」と言ったのが旧エヴァだとすれば、オタク(未成熟)に「社会のレールに乗っかれ」と言っている、非常に保守的な思想の作品なのではないかと思います。そこには「成熟の困難」を解決する何者も示されていなければ、ただ自然に大人になれたトウジやケンスケが描かれるのみです。彼らは強制的に大人になり、シンジを救うコマとして現れたように思います。
彼らが大人になれたのはなぜなのか?そして大人になれない僕のような人間がいるのがなぜなのか?現代社会の問題としてのその視点が欠落しているように思います。そしてそれが欠落している限り、この作品は不完全です。つまり結局は庵野秀明補完を見せつけられただけの新劇場版シリーズだったわけです。
「エヴァはオナニーショウです」とは旧シリーズの庵野秀明の言葉だが、結局今回もオナニーショウ的なものに成り果ててしまったのではなかったと僕は問いたい。
無との戦い
(注)【WARNING】
生産性の一切無いことを書いていますし面白くもないことですので読みたくない方は読まないでください。
無との戦いに挑んでいる。無とは欠如である。やる気の欠如、欲望の欠如、願望の欠如。そしてまた願望の叶わなさへの悲嘆・失望。限りない羨望。
僕は過去の僕を羨望している。過去の僕は輝いていた。そう感じる。なぜならば、過去の僕にはやりたいことがあったし、それなりに同級生からの憧れの目もあったし、好きな彼女もいたし、人生の展望があったように思うし、何より絶望が無かった。絶望を知らないことが幸福であった。
しかしいまやそれらの過去は消え去り、34歳の虚しい独身男性として生きている。なぜか。なぜなのか・・・・。それはわからない。なぜこうなったのかわからない。なぜ生きているのかもわからない。なぜ自殺しなかったのかもわからない。これから自殺しないのかもわからない。
そして今や若い頃の気力も消え失せ、読書などに頭を使うことも、感動を覚える事もなくなり、日々の仕事にも十分なパフォーマンスを出せずに汲々としている。そんな冴えないオジサンになってしまったのだ。なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?なぜか?
・・・・わからない。
全てはうつ病になってしまったことが始まりのようにも思えるし、そもそも自分の性格では鬱病になることが運命付けられていたのかもしれない。
ここで僕は手が止まる。これ以上書くことが思いつかない。この醜い独白に何らかの意味を見出すこともできない。今日はただの平日だし何も特別なこともないしこんな手記を書くほどの意味もない、ただの平凡な一日である。
ここまで書いて思うのは、「無との戦い」と題してなにか大したものを書こうとした自分のアホさ加減である。そして自意識ダダ漏れ会場と化したこの日記にも、ややうんざりし始めている。消してしまうべきか?いやもうちょっとなにか高尚なことを考えて書くべきか?それにしてもいま思いついたことを手が動くままにダラダラと書き連ねているだけなのでそれも叶うまい。
無。無である。とにかく心に空虚感が巣食うのである。いや、なにかとてつもなく不味い状況にあるというわけでもない。自分で言うのもアレだが最近は金が稼げているからこのままお金も貯めようと思えば貯まるだろう。何が無なのか?何が不満なのか?
それはなにか心底心酔して取り組むものが無いからである。日々の仕事もつまらなく感じているからである。自分がやりたいと思ってやってきていたこと、展望し将来を希望しやってきていたことが意味をなさなかったためである。
過去に囚われている。過去の囚人である。そして未来に何も見いだせないでいる。取りも直さず現在に、現在に何も価値が見いだせないでいる。成長や自己実現などが見いだせないでいる。無とはなにか。無の何が問題なのか。何を持って「無」と名付けているのか。欠如、欠如、欠如のみがそこにある。
ここまで書いて話のオチがつけられないで困っている。とにかく虚無感というものを吐き出したいだけのオナニー会場だったのかもしれない。
なにか物語、自分が心酔できる物語が欲しい。自分の気分を一気に高めてくれる何かが欲しいのだろう。それが仕事でも人間相手のことでも何でも良いのだと思う。ただ、今の自分にはそれらが無いのである。それをもって無としている。
読書の感想を書くわけでもなく、社会問題や政治について批評するわけでもなく、アニメや映画について語るわけでもなく、ひたすら「気持ちの悪い自分語り」に陥っている。これじゃ全盛期の滝本竜彦や劣化版太宰治じゃないか。そんなやつは死んでしまえ!!!
この文体はますます滝本竜彦に影響を受けていると思い、自分の成長の無さに愕然とした失望の念を抱きました。
もうダメだ。これ以上書いても何も気の利いたことが出てこない。出てきそうにない。
ということで最近観た海外ドラマのについて少し書く。
「ウェスト・ワールド シーズン3」
全ての人間がAIによる未来予測によって支配されるようになった世界を描いている。主人公の一人であるアンドロイドは、そのような人間世界を破壊し自分が新世界の神になろうとする。それに支持し付き従う人間も、閉塞感の漂う社会を心底憎んでいた。
そして革命を起こすのである。社会システムの中央であるマザーAIの破壊という形で。
こう書いてみると陳腐なストーリーにも思えるが、そこはアメリカ流の脚本と脚色で引き込ませるものがあった。何より、社会の閉塞感というものをうまく表現し、人間のもつ虚しさをうまく表現していた。自分の心に突き刺さるようなドラマであった。
続編があるのかはわからないが、期待したい。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=116&v=Yl8Xp5DPxEk&feature=emb_title
ということで気を紛らわせたところでおしまい。これで良かったのかというと全然良くない。今日はなぜか「大学生が恋人とセックスする理由」みたいなテーマの研究論文を見て感心していた。実にくだらないものだ。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsyap/29/1/29_29/_pdf
人生の意味
人生についての考察は無意味である
人生は私一度であるからである。
一度のものに法則性を見いだせるのか
食って寝て子供を作って死ぬという
動物界の法則性はあろう。
しかしそれは一度の私の生命そのものとは異なる
生命と人生、繁殖、欲求充足過程は異なるものである。
本質たる生命は一度限り、二度とない試みとしていみさに私を悩ませる。他人のように生きるのでは、それが無駄である。オリジナリティ非同一性こそが人生、生命の本質であると思うのだ。
香港情勢
香港情勢を観ていて、それに無反応を貫いている日本政府中枢にも憤りを感じるとともに、母校である創価高校の創立者池田大作の「日中国交正常化提言」を聞きかえしてみると、やはり我々というか、創価に関わるものの義務としては単に中国政府にべったりすることではないのではないかという考えが思い浮かぶ。
高校時代に中国の文学者の魯迅「阿Q正伝」なども読まされたし、魯迅の革命家としての失望なども読むと、現在の中国における大衆の無知、情報統制による問題などが同じようなものではないかと感じられる。(魯迅の解釈に問題はあるかもしれない)
魯迅の「狂人日記」において
『子供たちを救え』の言葉で最後が締めくくられている。
つまり新世代である子供たち、青年たちが大きな体制や権力欲の犠牲になってはならないとの魯迅の心の叫びであったのではないかと思う。
そういうことを思い出しながら、警察暴力に対して非暴力不服従というガンジー主義で戦っている香港市民への敬意を表したいと思う。彼らこそ、中国の未来であるはずなのだ。。。
腐敗した体制、大きくなり権力に目のくらんだ人間しかいない体制はいずれ滅びる。歴史上、そのような体制が続いた試しがない。いつかはわからないが、いまの抵抗が報われる時が来るのであろうと思う。
対岸の火事としてしか見れない自分であるが・・・・。
フリースタイルダンジョンラップ 「あの世とこの世とWTF」
フリースタイルダンジョン風ラップ
自分のクソだめさのみ感じる日々
逃避行しようぜ来世
やってらんねえってわかってんだって
こんなもんならここにゃ来なかったって
だって、あの野郎が嘘を本当のように言いやがったんだ
「あそこに行けば救われます。希望者は先着順で。」
こりゃあ大した実験だったぜ、今まで何億人が犠牲になったか。
元いた場所が一番の天国なんだって、いまさら気づく大馬鹿者達。
あいつらは決せして許せねえ
戻ったら必ずこの世界にぶちこんでやる。
君らが「救い」を説いたこの世界へさ。
wtf! fuck off yourself !
双極性障害当事者の独白
「双極性障害(双極症)が基本的に一生付き合うものであり、そのほとんどの期間を患者はうつ状態で過ごすことになる」
ということを最近になって知って、難病っぽいことに軽く絶望というか、最近の体調の悪さからしたらまさに説明してくれる話だと思った。
ここ数年、あまり悪くは無かったが、基本的に軽い鬱であることが多かった気がしている。
自殺企図などはいままで無かったが、大きな躁状態などもなく、万能感が味わえることも少ない。
躁状態のほうが「本来の自分」であるんじゃないかと考えてしまうが、それは違うらしい。
子供の頃から中学生までの幸福な時代は、どちらかというと躁状態に近かった気がする。いつも気力に満ちあふれ、いろんなことに興味が湧き、一生懸命に取り組む。友達と遊ぶのが楽しくて、幸せな子供時代だったように思う。