生きる意味わからん的なこと

何故生きているのだろう的なことをまた考えていた
正確には考えるというより感じていた

少なくとも理性的には回答し得るはずのこの問題だが、とりあえずの答えは理由をつけようと思えばつけられる
 曖昧な奴で言えば「世界をより良くする」「不幸を無くす」「楽しむ」「女」とか

私が言いたいのはそういった「現世的に閉じた」生きる理論などではなくて、私の心が感じ取っている虚無に対する最終的な解決である。

これはもはや出家しろとかそういうレベルなんだろうが、特に出家したいみたいな欲求も無いし、自分が今なにか瞑想修行をセルフでやっているわけではない。
去年は瞑想指導を受けたりしたが、結局続かず、その後指導してくれる人にも会いに行っていない。

では私は心の平安、悟り的な何かを放棄してしてしまっているのか?なぜ?

かくも不安や緊張、苦痛の多いこの世界で、悟りを目指さずに正気でいきていけるだろうか?

それについて自己分析をする。

まず、人間の性質として

・ルーチンの中に放り込まれると不安を無くす

というのがあると思う

さらに

・生物的欲求を満たしたい限り、意味は必要が無い

という第二の人間存在の性質もある

これは動物や植物、すべての生命体に備わる基礎的な「生きる力」である。これなくしていかなる生存競争、その結果の多様性もあり得ず、すべての生物は勝手に死んでいくのみである。

では私は今これらの2つの要因によって、生きる意味への問から「逃避」「避難」することができている状態なのだと思う。

それは「望ましい」か「望ましくない」か

こういったことに悩んでいるのだから、本来望ましくないと私の深層心理では感じ取っているのであろう。

世の中の多くの人間にとって生存理由、レゾン・デートルの問というのはほぼ上記理由で解消、疑似消滅してしまっているのだ。

つまり生きる意味からの逃避でもあり、避難でもある。

生きる意味の問は我々を丸裸にし、世界の本質にある無根拠さ、残酷さ、無意味さから目を遠ざける。我々は我々の閉じた世界で生きていることが幸せでもある。

しかし、限界状況が起きた場合、これらの意味が強く求められる

病気、事故、家族や恋人、友人などとの離別
失業、経済的困窮
戦争、生命の危機

こういった場合に陥ると、我々は驚くほど明晰に
「なぜ生きているのか」を考え始めるのではないか

私はいま、そういった限界状況と、ルーチンな日常とを行き来しているのではないか。

ルーチンな日常では、その行いをきちんとこなす必要があるから思考は停止される。また、限界状況は人間を著しく強いストレス状況下におき、精神を侵していくために、なるべく避けられる。

そういうリズムが存在しているのではないかと思われる。

こうやって考えてみると、人間というのは一体何なのだろうかと思う。動物、生命体として維持していくためにルーチンが必要で、それなくして基礎的な物質的基盤は維持されない。だが、一歩でそれらの基盤を「維持させ続ける理由」、そもそも「なぜ物理的に維持しなければいけないのか(何故生きるのか)」という問もそばにあり続ける。
 そしてそれは光と影のように、生物本来の「生と死」という宿命から逃れられないように、表裏一体なのである。

病気は不幸、不幸で避けるべき。貧困も、孤独も、忌まわしいもの。ネガティブな思考も人生に有害なもの。

だがそれら全ては人生本来に備わるもので、誰もが避けられない。

病人をいくら嫌い憐れもうとも、数十年、あるいは数年で自らも同じように死へと向かっていく。その基本的な事実から目を背けており、では病人はそんなに悲しいのか?死ぬのは、病気は自然現象なのに、なぜ受け入れること、当然であることを認めたがらないのか?

そうとも思う。
人が死んだら、それは自然のことだ。
死ななかった人がいたら異常だ。

生きる意味がわからなくて、それを問うのも普通だ。なぜなら数千年以上前から人類はそうしてきたからだ。

だから、だからどうなんだろう

結局、生きる意味が無いのが普通ってことで、苦痛とか人生の嫌なこととかすべて耐えて死んでいこうっていうのが、普通なのかな。。

じゃあ僕達がやっている日々のルーチンって一体何なんだ。お金を稼ぐとか、結婚とか、子供?名声とか?長生きとか

一体全体、なにをやっているのか誰が理解しているのだ

 

 

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