無題

普通の人生というのがなんなのか、それが日本と海外ではぜんぜん違うだろうし狭いのかもしれないけれど。

自分の人生にとって大事なことはなんなのかはもう忘れた。大事だったことはすべて無くなったきがする。
だからこそ死んでもいいと思うわけだし、やり残したことや未練などもない。今日頭を撃ち抜かれても、それでも特に後悔はないだろう。

ならば自分は何によって生きるのか。なぜ生きなければならないのか。この苦痛に満ちている世界で、何が私を生きさせるに値するのだろうか?快楽?お金?女?食べ物?

いずれも別に死んだら関係ないし、いつか死ぬ人間にとっては一時しのぎの快楽、麻薬、覚醒剤となんら変わらない。

ならばそれでもなお私にとって価値のあることなどあろうか?まったく思いつかない。思いつかないのだから現状は無いのだろう。だからそれを探し続けるのか?それだけどんどん疲弊しているのを感じる。

僕は絵を書きたい。アニメや動画作品を作りたいとも思うが、それは人生ではない。

生きることに必要なことなんて、究極何も無いんだと思う。だから、アメーバだってゴキブリだって、家畜だって、生きることに何も悩んではいないのだ。

彼らは賢いのかバカなのか?彼らは世界を認識できず言葉で考えることもできないから、自分の存在や生きる意味について考えることができないくらい阿呆なのかもしれない。では地球上の大多数の人間も特に考えてなどいないのだから阿呆なのか?
阿呆でなきゃこの過酷な世界を生き残ることなどできないのだろうか

人生、ピストルで簡単に追われるのだし、実際そうしてる人もたくさんいる。だからなんだというのだ。寿命で死ぬこととピストルで死ぬことに大きな違いはあるだろうか?どっちにしろ死に、何も持っていくこともできないし、死んだ後のことなんかわからないのだ。

統合失調症と原始社会のシャーマニズム

なぜ統合失調症が100人に一人という高い確率で発症するのかについて疑問です。人類の進化において、このような傾向の遺伝子は淘汰されてしかるべきです。なぜなら統合失調症では現実認識も、現実対処能力も無くなってしまうからです。

しかし僕は思い当たるのは、人類の原始社会が「シャーマニズム」によって運営されていたことです。シャーマニズムとは、特別な少数のシャーマンがその預言や謎のヴィジョンを元に政策決定をしていた社会のことです。
このシャーマニズム型社会は現在でも少数存在するし、有史以前、3000年前ならたくさん存在していました。むしろ宗教的なリーダーを介在しない共同体のほうが少なかった。

だから、統合失調症、幻聴や妄想は人類の社会体制の本質何だとも言えるのだと思います。
3000年たって今。幻聴や妄想は淘汰されるようになりました。科学の時代だからです。

しかし、遺伝子は3000年くらいの短期では淘汰されません。もし現在の社会で不要であったとしても、その遺伝子要素が人類の遺伝子から消えるには1万年とかそれくらいの単位で時間がかかるのでしょう。人類は遺伝子より早く、知識社会を発展させ、技術が加速度的に世界を支配するようになってしまった。だからこそ、原始社会といまとのギャップの現れとして、シャーマンに近い統合失調症患者というのが多数存在するのではないかと思います。

 

 

マンガでわかる!統合失調症

マンガでわかる!統合失調症

 

 

わが家の母はビョーキです

わが家の母はビョーキです

 

 

 

因果倶時

日蓮仏教というか法華経?教えの中では「因果倶時」というのがある。

これは過去世・現世・未来世・におけるカルマが全て相互に影響し合っており、現世の振る舞いを変えることで過去・未来世の自分の境遇・境地に良いカルマが伝わるという、超絶意味不明な時空論です。(とはいえこれが日蓮仏教の根幹に関わる宿命(カルマ)転換論につながるわけです。)

全く実証的に根拠のない話なのですが、これはある種面白い物理的な話である。

過去、現在、未来という一直線であるのが我々のニュートン力学以来、量子力学以降も続いている時間論である。

しかし近年の時間の扱いの相対化により、「因果倶時」的な時間論も可能になる可能性がある(可能性があるというトンデモ話です)

そうすれば、いまの事象は過去にも未来にも影響されるし、未来の事象が現在に影響していくことすら考えられる。

映画「インターステラー」では、五次元の宇宙論の中でそのような時間論、因果倶時的な因果関係が描かれていました。過去・現在・未来がループしているような。

なので、因果倶時という「フィクション」の宗教教義が、物理的な科学へのインスピレーションとして働く面白い例なのではないかと思います。

 

 

増補 日蓮入門 現世を撃つ思想 (ちくま学芸文庫)

増補 日蓮入門 現世を撃つ思想 (ちくま学芸文庫)

 

 

語り

僕は日々感じている主に絶望を語ろうと思いました。実際に、それしかなかったからですね。
 
最近、気分が落ち込むことは減ったかもしれません。しかし、僕は仕事の中でどんどん「他者への欲求」というのを失っているのではないかと感じている。
 
在宅で人と接する機会が少ないからかもしれませんが、エネルギーも人とゆっくり合って話すことも、なかなかできないです。
 
異性との交友というのも、まったくやる気が起きなくなります。
 
これ、アウシュビッツ強制収容所にいたユダヤ人と同じような(違うけど)
 
自分は結局何をしているのか、何がしたくて今これをしているのか?それが数年間全く分からない中で生きている。結局僕は物語、表現の臨界点に触れるのが自分のエクスタシーの最高潮なんだと思う
 
その時に初めて、涙を流し、「生きててよかった」と思えるのかもと思います。
 
人間対人間は、僕には難しいです。いろいろ迷惑かけたり自分も傷ついたりしたので、人間同士はまったく悩みの種にしかならない。
 
ただ肉体は欲望を持ち、他者を求める。その肉欲と自分の冷静な思考の中である「それ別にいらん」という部分。その2つのジレンマに悩まされています。
 
いったい、なにが僕にとって生命を沸き立たせるような事業・仕事・活動なのか。それを探している
 
 
この歌は、非常に良いです。
 
 
 

ウォーキング・デッド シーズン6見終わった

ウォーキング・デッド」もかなり極まってきた。
 
ジーザス、救世主、エゼキエル
 
そういう聖書的モチーフキャラが出て来るし
 
死者が蘇り人肉を食らう、黙示録的な世界観の中で因果応報の法則が存在するような描き方もしている。
 
すでに世界が完全に崩壊し道徳も存在しなくなった世界観の中で、聖書的モチーフが多様されるのも一種の劇的な演出として面白い。
 
残虐描写、殺人描写の多さはアメリカのドラマの中でも異常・最高峰のレベルだ。死体描写などは日本のテレビでは放映できない。
 
 不殺を誓った人間がその善行のカルマによって因果応報を受け救いを受けるというストーリーも神話的であるし、大量殺戮をしてしまった主人公が残虐な報いを受けるというのもこれはどこかしら蓋然性がある
 
ジーザスというキャラが身軽なトリックスター的に描かれる当たりも好き。顔面まさにジーザスって感じの白人なのです。
 
それにしても、これはだいぶメンタルを消費する物語だと思う。
 
来週から始まるシーズン7は見よう。
 
 

存在のレイヤーの話。自分が現実のレイヤーから若干ずれてるよ的な。

「この歳になるとよくわかりますが、人間はたくさんの情熱を生きられません。たくさんの思想や、たくさんの運命を生きられないと言ってもいいでしょう。自分と本当に関係した思想でしか生きられません」(遠藤周作

http://www.bookbang.jp/review/article/518689

この歳になるとすごい「よくわかる」

結局政治や大きなことをいくら語っていたとしても、それが自分の生活実感や生きている日々の足場が関係なければ、それは特に執着の無い問題となる。
だから多くの人間は世界・国家というメタレベルの現実と、日々の生活・家庭という現象(表象)レベルの現実の両方がある時に、後者に寄り添ってしまう。むしろメタレベルの現実は現実ですらないという振る舞いをすると思う。
これはより大きな枠組みで捉えれば、生きることも死ぬことも、宇宙が開闢し、100億年の栄枯盛衰を経て再び無へと帰ることも、それは究極の「現実」なのだ。
僕は昔から、この「究極の現実」のことをよく考える。
だけど、人生は、すくなくとも感覚においては、低レイヤーの生老病死の現実に振り回されるのだ。
その二重の現実・多重の現実を前に、いっそ最上位の究極の現実に飲み込まれてしまいたいとすら思う。
「なぜ生きているのか?」
という問には、低レイヤーでは「楽しむため」などの答えはあるが、高レイヤーにおいては「存在論」になる。
なぜ存在は存在しているのだろうか?消滅したらどうなるのか?なぜそもそも存在はこうなのか。
 遠藤周作の上の言葉とはだいぶ逸れた話になってしまったが、自分が生きられる現実と、生きたいレイヤーの齟齬が、深刻であるのだろうなぁと今は思う。

<スキあらば自分語りと電通の人の話>

<スキあらば自分語りと電通の人の話>

大学:在学中に発症した鬱で1年休学
大学院:鬱で2年くらい休学

という踏んだり蹴ったりで、大学院卒業したのが2013年。
その後も踏んだり蹴ったりなので、基本的にまともな人生歩んでない。

ただ、人に恵まれたので大学院は卒業させてもらえ、いまとなっては感謝している。(が、もはや大学も院も研究室飲み会とかには一切行っていない)

とはいえ、正直何もやる気が起きない状態が長くありひきこもりも長かったので、一般的な就労形態(正社員等)が身体的精神的に無理とかがある。(まあ環境による)

なので、電通の自殺した人。こういう挫折もなくて当たり前に無理をする習慣が合った人ってのは、いざという時自分を追い詰めるしかなくて、可哀想だと思った。

一度鬱とかで、完全に自分の制御不能な病に陥っている人間は、自分のもろさとか、逃げることの大事さとかを知っていると思う。逃げないことで結局自分の精神も身体も悪化するのだから。

エリートコースの人が簡単に社畜化する。その現象ね。

あと、論点として、今回の件、パワハラ・セクハラは法的な責任があるだろうけど、個人の裁量が委ねられてる労働時間は自分でコントロールできない人にも責任はあると思う。これは労働契約において奴隷制を採用していないし、いつでも逃げる権利は確保されている。
なので裁判でそれが違法であることにはならないのではないか?

問題は、仕事はだれでもいつでも辞めたり無理なら変えたり、っていう当たり前のことができていない日本のムード、いわゆる「社会の常識」の根底にあるものなのだ。

だから、最終的には、自分の中に深く根付いている規範意識というのをきちんと扱っていかないと、最悪の結果にまで自分を追い込むんです。

なので、いろんな甘え方ができるっていうのを、世の中で提示する人が増えればいいと思う。自分も、鬱とかひきこもりで息詰まって自殺しそうだったので、そういう困ってる人がいたら力になれるようになってみたいなーというのがあります