幸福とは何か
出世間とは、社会に参加しないことで、社会から得られる一切の価値体系を放棄することである
通常の価値体系、いわゆる世俗的幸福を破棄する
出家というのはそういうもので、本質は「絶対的幸福」である
ブッダの得た幸福とは我々が日頃気にしてあくせくしているような、そういった小さいゆるぎやすい幸福ではない
揺らぐことの無い、世界に普遍した幸福概念である
我々にとって生きるとは、幸福とは一体なんなのか
僕は脳を取り出してキモチイ信号を脳に与え続ければ幸福だと思う
それ主観的に気持ちいいし、なんら不安も苦痛もない。まさに幸福だ
ではこれと「本当の幸福」とは何が違うのか?
違わないと思う
それはなぜか、
「気持ちよさ」「快適さ」を幸福と同義にしている根本からの過ちである
無明、無知と言えよう、
快適さ、他者から見た心地よさ、
それらはなんら幸福ではないのだ。
本当の幸福を生きて行くにはどうすればいいかを探求し続けるしかない
もう誰かが教えてくれる幸福とかにこだわるのは嫌だ
人はすべて死す
今年30歳になりました 早生まれなのでだいぶ長かったけど 去年は1年、なんかすごい危機感というか、プレッシャーでした たいしたことはしてないけど 30で人生半分くらいにはなるじゃないですか。 自分が30になるとか、信じられません ミサトさんもリツコも加持さんも30ですが、彼らが大人ぶっても内心そうではなかったのがわかりました。 というか、大人ってなんなんですかね?正直、年齢相応の振る舞いというのが糞だと思っていて、日本社会ってオワコンかなとか思う 年下のできる人はいっぱいいるし、彼らに学ぶことは進んで学んでいきたいし。年上だからってそういう扱いされるのも微妙だし だけど、やっぱ僕は一回死んで30くらいからやり直しなのかなとか思います。 いや、いままでの経歴とか病気とかなくならないのでかなり不利なスタートですけど。でも生き返ってやり直し さあ、どうしますか。不安ですか。でも人間簡単に死ねますし、死にたくなくても死ぬんですよ 100年後には100%死んでるんだ 誰一人この世に残ってないよwww そう思うとウケるんですよね(笑 いや、100年後、誰も生きてないんですよ??冷静になってみてください。 そんな究極の真理が明白に存在するんです その視野に立ったら、そもそも僕らの人生ゲームってなんなんですかね?って思います。 自慢したいですかね?そんなに。自慢気に、自信ありげに 100年後そんなの誰も気にしてませんよ。 そうやって全てを無に還元して考えたりすると、非常に落ち着くんですよ。 よくあるじゃないですか、毒薬を常にポケットに入れて、いつでも自殺できるって思ったら落ち着くみたいな話。 それに近い みんな絶対死にます。これはハズレのない言明です。 よし、じゃあ、なんですかね。生きてるってなんですかね、 本当わからないので、これから人生なんか、苦しんで死ぬかもしれないけど、まあ所詮最後は死ぬんですよね 落ち着きましょうね、この真理の前にすべては無力です。
- 作者: ボーヴォワール,川口篤,田中敬一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1959/09/05
- メディア: 文庫
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岬ちゃんのこと(「NHKにようこそ」2次創作SS)
僕が彼女と契約したのは、95年の寒い寒い冬だった。なんのことはない、普通の雪の日だった。 だが僕達は全く普通でなかった。いや、そう思いたい、ってことか。
僕と彼女は付き合う、、のでなく、お互いの命を人質にする契約をした。つまり、どちらかが死んだらもう片方も死ぬ。僕が自殺したら岬ちゃんも死ぬし、岬ちゃんが死んだら・・・たぶん僕も死ぬことになる。けどまあ、それは重要ではなくて、岬ちゃんの自殺を食い止めるには僕が自殺しちゃいけないんだってことが重要なんだ。 だから僕らは、陽気に生きなければいけない。そう、僕らは人質なんだから。
でもさ、待てって。俺たちって何にも解決してないじゃないか? 僕は相変わらず無職だし、岬ちゃんはよくわからないけどメンヘラだし、もう約束なんて忘れてるんじゃないかってくらい、リスカの写真が送られてくる。 はぁ、、、やはりひきこもりの無職ニートにはなにもできないんじゃないか!!ちくしょう!!
僕は確実に死に向かっていた。僕も真似をしてリストカットというやつをして、岬ちゃんに送ってみた。 結構本格的にやったんだぜ!うおおおお送信だ!! 夜中にキメた薬でハイテンションになっていた俺は、意気込んで送信した。 ああ、気持ちいなあ?これが生きてるってやつだよなあ?岬ちゃんはこれを求めていたのかぁ。なかなかだぜ。いい度胸してんなあの娘も。近頃の若者にしてはキモが座っている。
だが、だが、だが。
痛い
「めっちゃいってえええよ!! ふざけんなよ岬!! なにが死にたいだよ!こんなんで死ねんのかよ??無理に決まってんだろ!!痛い痛い痛い痛い!!もう痛いだけじゃねえか!!金返せ!!!」
そう心の中で叫びながら、ボロアパートでのたうち回っていた俺だ。
返信は 「痛そうだね」
はぁ???痛そうだねじゃねえよ!なんかそれ以外の人間の感情ってあるだろうが!俺はいつも優しく、ジェントルマンな感じで労っている(ふり)をしているだろうが!!そっちもそれくらいはなあ!礼儀ってもんがあるだろ!
これが、次の年の冬だった。
内向型人間の時代
スーザン・ケイン「内向型人間の時代」
あったので少し読んでます。わりと面白いので自分でも文庫版購入
アメリカという外向型人間の社会にあって、内向型人間の持つ価値というものに焦点を絞って、社会・文化・心理学的などの多くの側面から書いている
基本的には、内向型人間はアメリカでは成功できないしビジネスでも成功できない、という現状認識があるようです
これは日本でもコミュニケーション力重視とか言われるから同じような時代になっているのかと思う
ただ、アメリカ的な外向性と日本的外向性は違うと思うので一概にはわからない
特に、日本・韓国・中国などの儒教文化圏において「沈黙は金」の文化について、アメリカでの不遇を描いている。能力は優秀な者が多いが、いざアメリカの企業での仕事となると、必要な能力に「べらべら喋る」というのが加わってくるし、1人でいるのが好きな人は基本ダメみたいな文化だから排除されるらしい。
ヨーロッパでもアインシュタインや、インドの例でガンジーなども典型的な内向型人間で、まあ頑張れば理解されるしカリスマにもなれるという。
確かに、世界で評価される日本人というのは基本は作品や仕事内容であり、そういう点で彼らは最初から
「ベラベラ自己アピールしなくてもいい」(アメリカ人がすでに評価してくれてる)
という下駄を履いた状態でアメリカに行くのだ。
まず日本的文脈で評価を得ることさえできればいい
だから0からアメリカで自己アピールしまくってビジネス的にガツガツしまくって評価を得るようなのとはわけが違うとは思う。
ハーバード・ビジネス・スクール(最近話題)に行ったアジア系留学生のインタビューでも、やはりHBSは異常なほどコミュニケーションや放課後交流を重視しており、ほぼ社交する場と化しているようで、これはそういう志向の無い人にはキツイ。そもそも何しに来たんだ状態である。
確かにそうでもしないと卒業後にアメリカで活躍なんてできないわけだから仕方ないとは思う
日本のMBAに価値があまりないのは、そういった総合での「人間力」的なものを重視してないで授業中心だからだろうか
学生が発言しなくなると、教授自身が評価を下げられるらしい。だから必死で発言させたり外向的な振る舞いをさせようとするという事態が発生している。
ただ、この本でも言及されているリーマン・ショックを予知した人々の志向は完全に内向型人間だそうだ。投資家のウォーレン・バフェットなどもそういった傾向があり、投資で成功するのは内向型人間であることが多いという研究結果もあるようだ。
周囲の判断や勢いに飲まれずに、自分の中で沈思黙考して論理を構築して投資判断をするという資質は、ほぼ性格的な外向性・内向性の度合いと相関しているとか
感情を抑制するという、アメリカではネガティブに取られがちな傾向は、投資においては重要な姿勢であったりするし、アスリートとか学者とかもそうなんだろう
内向型人間のすごい力 静かな人が世界を変える (講談社+α文庫)
- 作者: スーザン・ケイン,古草秀子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2015/12/18
- メディア: 文庫
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《マッドマックス 怒りのデスロード》 鑑賞
「MAD MAX FURY ROAD」鑑賞
小島秀夫が
「ここ10年の間でもトップに入る」とか言っていたので鑑賞。
続編がさらに三部作を予定しているらしい
こうなるとみんな見ないわけにはいかなくなるのでは・・・。続編のヒット具合にもよるけど
前半は世界観からしてわけがわからないし、出てくるキャラや設定のエグさに目を取られ、半分冗談のように見ていた
しかし後半部、非常にリアリティがあふれ、一触即発。
非常に引き込まれる人間の描写と様々なアクション
映画のほとんどはアクションのように感じる。
しかも車、トラックで荒野(wasteland)を走りながら追われる敵たちとの死闘。まさに死闘。
最初は敵だった奴が味方になり最後は命をかけてまもってくれるあたりとか最高にこの脚本はすごいと思った
あと、マックスの輸血のところとかも最初の伏線を活かしているんだね。
古き良きハリウッドのアクション映画のようで、感動しました。
世界観は「風の谷のナウシカ」っぽい
個人的には、同じく大ヒットしたアメリカのゲーム「フォールアウト」シリーズの核戦争後の世界とリンクする部分もあったりなかったり。
というか、世紀末、核戦争後の世界ってどうしてもナウシカのように感じてしまうのだが・・・旧作のマッドマックスシリーズはナウシカよりは昔なのかな?
この後の展開としては、まあありがちなのは世界の再生に向かうストーリー。
あとは、単純に地獄めぐりしながら、核戦争を起こした張本人たちのコミュニティにたどりついて、全員殺すとか。
「核戦争を起こした人間たちは実は生き延びており、旧世界の科学技術を使った独自コミュニティを作っている」とかの設定はどうでしょうか。まんまフォールアウトとナウシカなのでこれは無いでしょうか。
http://beagle-voyage.com/movie-madmax-fury-road-review-2015…
地獄めぐりの序章と書いてあって。これ以上の地獄があるのか、と。。
【エヴァンゲリオン問題】他人に認められたい?
【エヴァンゲリオン問題】
自分は他人に認められて欲しいのだろうか?
というか表層意識上、他人に認められたいという意識はそもそも無かった。
高校の頃にちょっと有名になったり周りにチヤホヤされたり、大学でも少しそういう目で見られたりして、
「誰かに認められたい」コンプレックスなどというのはほとんど無かったように思う
なのだが、実際、社会生活上に色々問題を抱えてしまったし心理的な問題もずっとある
それは何故だろうか。
まず
①自分が目指しているものと現実の自分のギャップ
②他人(や親)がこうあって欲しいと望む自分と現実の自分とのギャップ
③好きな異性(好かれたい異性)に認められたい自分と現実の自分のギャップ
10代後半〜20代前半で生じた問題は主に1,2に属する。
・自分がありたいイメージ
能力的に自分がこうあるべきだという過大な要求または周囲の期待、親などの期待、こうある「べき論」によるプレッシャー
・他人がこうあって欲しいと「強く望んでくるイメージ」
これは他人が勝手に俺に対して「こういうことを考えろ」「こういう人間であれ」
「こういうことはするな」
といった様々な定言命法によって与えられる種々の抑圧、助言、叱咤激励
そういったもの。
これに対しては非常に悩み、半ばそれによって病んだかもしれない
20代中盤それ以降
他者承認欲求問題。実存的価値問題、私はなぜ生きているのか、生きている価値があるのか。といったこと
・20代で基本的に基盤となるところからある程度離れ、壊れていた感じなので、自分のあるべき像や他人が自分に求める像というのも和らいだ。
あと結構、諦められたからラクになった
だけど非常に不安定な自己像、否定的な自己イメージの肥大化によって精神的にはよろしくない状況。特に「自分が何かをする」「目標に向かって取り組む」ということに価値を見出していた人生が一気にゼロになったので、そもそも自分が存在している意義すら見いだせない。ただひたすら砂漠を歩いて倒れて死ぬのを待つような心持ち。
最近
・基本的になんで生きているのかわからない
何か役目(仕事など)を与えられてそれを解決するというループに入れたから、日常を生きることはできるようになった。自分の意義とかを何らかの取り組みにすり替えているところは全く解決にはなっていないと思うが、(役目の喪失が存在意義の喪失になるので)、とりあえずそれで息をして気を紛らわして、周囲にも少しは認められるようになる。
・何か大きな目的のために生きる・死ぬこと
ビジネス上の事業にかぎらず、内村鑑三の言っているような「事業」(人生をかけて残す、目指すもの)に取り組んでいくしかないとは思う。そうしないと生きていることが砂漠かもしれない。ゆるく何も考えずにいられるような人間でもないか。
だが特にこれといって実現したいことも無いので、結局堂々巡り
今の世の中、社会起業とか、ビジネスで社会貢献とか、NPOとか、なんでもかんでも社会貢献したいような動きが多くてね
「僕はエヴァに乗っていなきゃなんの価値もないんだ!!」(碇シンジ)
他人に貢献しないとボクの存在価値なんて無いんだ。
そういう心が強いのかな
無気力について
無気力極まりない
無気力についてはずっと悩んでいるが、解決策がよくわからない
小さいころから、〜〜のために生きる、毎日を過ごすということを慣れさせられたがゆえに、その何かに対して興味を無くすとかなにか押し付けられる価値に非常に怒りや拒否を感じてしまうと
自分が自分として主体化する「〜〜のためにこの今を生きる」ということが空っぽになってしまう
だから、作業をずっとこなすこと、laborに従事することのみが自分への救いになってしまう。では僕は日々労働しまくるしか救われないのか、それでも壊れてしまうではないか、
結局、自分が「何かのために」生きるという価値論に対して脱構築しなければならないのではないか。
絶えず私は〜〜のために今何をやっています。ただ刹那を楽しむことがメタ的に楽しいのではないのです、という無意識の底から来る根源的な感覚に対して、書き換えるなり、バランスを変えるなりしないといけないのではないか
だったら、もう生きるのと死ぬことの境目など本質的に存在しないとさえ言える。死ぬことももはやフローの中に自分を置くことだからである。
何がしかのきっかけで無気力がパターン化して何度も自分がそのループに入るきっかけが日々に常態化してしまっているのだ。