映画「Moonlight」を観た感想

「Moonlight」はアメリカの貧困地域の黒人コミュニティを描いている

主人公の少年がいかにしていじめられて無気力になって成長していくか、という描写をひたすら描く。ゲイであることは問題の一部でしかないかもしれない。

そういう意味で、イデオロギーばっているわけでもないし、なにかの道徳性を押し付ける映画でもなく、結論がハッピーであるかもわからない。それがすごく良いと思った。

アメリカという国で、白人と黒人で分断されているというのもよく描かれている。白人の人物はほとんどゼロ。貧困地域で、黒人しか出てこない映画なのだ。現代のアメリカを描いた映画なのに。

これがアカデミー賞??って前半は思ったし、アカデミー賞と聞いていなければ20分くらい観て辞めてしまうだろうなと思った。黒人社会のドキュメンタリー風映画だから娯楽性は少ない。それこそ「ラ・ラ・ランド」みたいなミュージカル演出もエンターテイメントな演出も皆無。恋愛も皆無。本当に皆無なのである。

でも、これがアカデミー賞に選出された理由は見終わってよくわかった。これは文句なしに素晴らしいなと。

いまのアメリカだからこそ、こういった「苦しむ人間の姿」を人種的な偏見や性指向の偏見への差別を踏まえて、空気を写しているかのように、自然と、ウザくなく描写する。だけどどうなるのだろうと観客すべてが息を飲む。

そんな映画なのだ。

日本人だから黒人社会のことなんて見たことも無いしわからないけれど、そこで描かれているのははるかに政治を超えた政治のように思える。

黒人のための黒人による映画。

すべての人種、差別を受けている、それでも死なずに生きている人のための映画。

上映部屋も小さく。人は多くなかった。カップル向けでも無い。
受賞後の日本版のPVは反吐が出る作りだった。

 

受賞前のコレのほうがいい

 


アカデミー賞候補作!『ムーンライト』本国予告編

男らしさと弱さ

「男らしさ」が苦しい男たち。なぜ男性は自分の弱さを語れないのか? https://www.buzzfeed.com/satoruishido/otoko-mondai?utm_term=.hcb2xpadX

 

これを読んでの雑記。

 

歴史的に言えば、文学(文字表現に限らず)は弱音を吐く場所の一つだったと思う。

 

文学や映画なども基本的には男(みんな嫌いな「おっさん」達)がマジョリティで制作される世界なので、そこでの男の自意識の中には当然苦痛を語る当事者がいる。

 

 その饒舌さというのも基本的には文学やサブカルチャーでしか引き受け先がないので、うまくそれを表現した作品(エヴァはまさにそのキラーコンテンツ。あと新海誠。)が大ヒットしたりする。(太宰治とかはどの程度かよくわからないが。)

 

2000年以降自意識系やセカイ系(まさに新海誠!!!)として揶揄され殺されてしまった当事者の弱音というのは確実にあって、以前抑圧構造を保ったまま存在し続けている。

 

参考

https://togetter.com/li/1022432

 

@hazuma

シン・ゴジラ君の名は。を見て思ったのは、ひとことで言えば、オタクの時代は終わったんだなということですね。第一世代のガイナックス系オタクと第二世代のセカイ系オタクの想像力が、同時に社会派になりリア充化し、オタク特有のぐずぐずしたどうしようもない部分がすっぱり消えた。

 それはいいことなのかもしれないし、悪いことなのかもしれない。いずれにせよ、長い間オタクコンテンツを見てきた1971年生まれの人間としては、今年はのち転機として振り返られる年になるだろうなと思い、自分の人生と重ね個人的にいろいろ感慨を深めました。

セカイ系美少女ゲームの想像力がリア充キャラを主人公に据えることで奇妙にも国民的評価を得てしまった、という渡邉くんの分析はまったくそのとおり。ただぼくは、この「あと」になにが来るかという点では楽観的ではない。君の名は。は、一つの時代の始まりというより終わりを告げる作品に見えた。

 

ネットの虚しさ

他人に認められたい、他人に同意してもらいたい。

最近そういうブログや記事ばかりでうんざりする。
もっと自分の内面をさらけ出して、それでもいいじゃんと

僕は居場所が無くなったと思う。

以前ブログやっていたときのようなネット空間ではなくなった
TwitterFacebookも、息苦しい。

ネットで何も報われない、救われない。

そういう感覚しかない

いくら何を問うても、帰ってくるのはエコーばかり。同情が欲しい、そうなんだろうね。

 

無題

普通の人生というのがなんなのか、それが日本と海外ではぜんぜん違うだろうし狭いのかもしれないけれど。

自分の人生にとって大事なことはなんなのかはもう忘れた。大事だったことはすべて無くなったきがする。
だからこそ死んでもいいと思うわけだし、やり残したことや未練などもない。今日頭を撃ち抜かれても、それでも特に後悔はないだろう。

ならば自分は何によって生きるのか。なぜ生きなければならないのか。この苦痛に満ちている世界で、何が私を生きさせるに値するのだろうか?快楽?お金?女?食べ物?

いずれも別に死んだら関係ないし、いつか死ぬ人間にとっては一時しのぎの快楽、麻薬、覚醒剤となんら変わらない。

ならばそれでもなお私にとって価値のあることなどあろうか?まったく思いつかない。思いつかないのだから現状は無いのだろう。だからそれを探し続けるのか?それだけどんどん疲弊しているのを感じる。

僕は絵を書きたい。アニメや動画作品を作りたいとも思うが、それは人生ではない。

生きることに必要なことなんて、究極何も無いんだと思う。だから、アメーバだってゴキブリだって、家畜だって、生きることに何も悩んではいないのだ。

彼らは賢いのかバカなのか?彼らは世界を認識できず言葉で考えることもできないから、自分の存在や生きる意味について考えることができないくらい阿呆なのかもしれない。では地球上の大多数の人間も特に考えてなどいないのだから阿呆なのか?
阿呆でなきゃこの過酷な世界を生き残ることなどできないのだろうか

人生、ピストルで簡単に追われるのだし、実際そうしてる人もたくさんいる。だからなんだというのだ。寿命で死ぬこととピストルで死ぬことに大きな違いはあるだろうか?どっちにしろ死に、何も持っていくこともできないし、死んだ後のことなんかわからないのだ。

統合失調症と原始社会のシャーマニズム

なぜ統合失調症が100人に一人という高い確率で発症するのかについて疑問です。人類の進化において、このような傾向の遺伝子は淘汰されてしかるべきです。なぜなら統合失調症では現実認識も、現実対処能力も無くなってしまうからです。

しかし僕は思い当たるのは、人類の原始社会が「シャーマニズム」によって運営されていたことです。シャーマニズムとは、特別な少数のシャーマンがその預言や謎のヴィジョンを元に政策決定をしていた社会のことです。
このシャーマニズム型社会は現在でも少数存在するし、有史以前、3000年前ならたくさん存在していました。むしろ宗教的なリーダーを介在しない共同体のほうが少なかった。

だから、統合失調症、幻聴や妄想は人類の社会体制の本質何だとも言えるのだと思います。
3000年たって今。幻聴や妄想は淘汰されるようになりました。科学の時代だからです。

しかし、遺伝子は3000年くらいの短期では淘汰されません。もし現在の社会で不要であったとしても、その遺伝子要素が人類の遺伝子から消えるには1万年とかそれくらいの単位で時間がかかるのでしょう。人類は遺伝子より早く、知識社会を発展させ、技術が加速度的に世界を支配するようになってしまった。だからこそ、原始社会といまとのギャップの現れとして、シャーマンに近い統合失調症患者というのが多数存在するのではないかと思います。

 

 

マンガでわかる!統合失調症

マンガでわかる!統合失調症

 

 

わが家の母はビョーキです

わが家の母はビョーキです

 

 

 

因果倶時

日蓮仏教というか法華経?教えの中では「因果倶時」というのがある。

これは過去世・現世・未来世・におけるカルマが全て相互に影響し合っており、現世の振る舞いを変えることで過去・未来世の自分の境遇・境地に良いカルマが伝わるという、超絶意味不明な時空論です。(とはいえこれが日蓮仏教の根幹に関わる宿命(カルマ)転換論につながるわけです。)

全く実証的に根拠のない話なのですが、これはある種面白い物理的な話である。

過去、現在、未来という一直線であるのが我々のニュートン力学以来、量子力学以降も続いている時間論である。

しかし近年の時間の扱いの相対化により、「因果倶時」的な時間論も可能になる可能性がある(可能性があるというトンデモ話です)

そうすれば、いまの事象は過去にも未来にも影響されるし、未来の事象が現在に影響していくことすら考えられる。

映画「インターステラー」では、五次元の宇宙論の中でそのような時間論、因果倶時的な因果関係が描かれていました。過去・現在・未来がループしているような。

なので、因果倶時という「フィクション」の宗教教義が、物理的な科学へのインスピレーションとして働く面白い例なのではないかと思います。

 

 

増補 日蓮入門 現世を撃つ思想 (ちくま学芸文庫)

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語り

僕は日々感じている主に絶望を語ろうと思いました。実際に、それしかなかったからですね。
 
最近、気分が落ち込むことは減ったかもしれません。しかし、僕は仕事の中でどんどん「他者への欲求」というのを失っているのではないかと感じている。
 
在宅で人と接する機会が少ないからかもしれませんが、エネルギーも人とゆっくり合って話すことも、なかなかできないです。
 
異性との交友というのも、まったくやる気が起きなくなります。
 
これ、アウシュビッツ強制収容所にいたユダヤ人と同じような(違うけど)
 
自分は結局何をしているのか、何がしたくて今これをしているのか?それが数年間全く分からない中で生きている。結局僕は物語、表現の臨界点に触れるのが自分のエクスタシーの最高潮なんだと思う
 
その時に初めて、涙を流し、「生きててよかった」と思えるのかもと思います。
 
人間対人間は、僕には難しいです。いろいろ迷惑かけたり自分も傷ついたりしたので、人間同士はまったく悩みの種にしかならない。
 
ただ肉体は欲望を持ち、他者を求める。その肉欲と自分の冷静な思考の中である「それ別にいらん」という部分。その2つのジレンマに悩まされています。
 
いったい、なにが僕にとって生命を沸き立たせるような事業・仕事・活動なのか。それを探している
 
 
この歌は、非常に良いです。