相対幸福と絶対幸福について雑文

努力に対して見合うリターンが得られるものとそうでないものがある。

それが何かは人によって違う。
万人がこの努力をしたら必ず幸福になれるというのは基本的には無い。

ただそれは相対的幸福論でしかないので、ベネフィットが費用に対して大きいか小さいかの違いでしかない。これは本質的には、価値は相対価値でしかないということを意味している。

つまり基本的には、市場ではかられ、他人に比べてとか、年齢平均値の割にどうだとか、周りがどうだからどうしたいとか、そういったものである。

そこをシフトしている人にとっては実際はいかなる努力も幸福である。

この場合は絶対的価値としての幸福であると思う。つまり自身の内的な価値でしかなく、比較相対ではない。

このような心理に達するには人間は大人になりすぎてはいけない。大人は基本的に相対の動物であるからだ。

大人が市場経済の主な参加者である限り、それは避けられないのではないかと思う。

基本的には、弱肉強食ということにもつながる。弱肉強食はこそ比較相対が生死に直接結びつく世界であるからだ。

では絶対的幸福論を確立することは人間には不可能だろうか?
この世に生きている限りイエスかもしれない。生きるとは比較を避けられない行為である。物質、肉体を持つ限り所有や権力は常に付きまとうのだ。

出家は悪のように語られるが、出家は比較を抜け出し絶対的価値の追求に向かうための方便である。

学問の府こそ出家(出世間)の一つである。利益追求から逃れ、純粋に真理を探究できる場所が出家と異なるはずがない。