【雑文】男性にとって結婚とは「購買」であるか?
多くの年収を稼いで、結婚しているというのは
逆に多くの年収で結婚生活というのを購入している
ということなのだろうか?
現代社会において、家庭を築いて子供を作るということは「強制」ではなく、「選択」である。もちろん選択と言いながら多くの人間がそうしたいと願っているのだから、完全な自由意志の問題ではない。しかし昔の強固なイエ制度や慣習が壊れ、生殖が共同体の存続に関わる問題として扱われなくなった。
結婚・出産は自己決定の問題となって現代では扱われている。
つまりそれらは市場的な問題である。
そのような中で、個人に必要な資本よりも多くの資本を稼ぎ、それに基づいて家族生活を営む資本金にしようとしている。これは一種の購買行動として分析できるのではないかと思う。
経済学の研究の中で購買行動として婚姻制度を分析した研究があるのかは知らないのだけど、単純に考えて今の社会では購買の中に入っている。資本が結婚生活の重要なファクター(支出)で、それをするかどうかが選択制ならば、それは市場での購入である。
こういう観点から考えてみて、もちろん収入すべてが結婚への購買意欲ではないものの、何故多くの人間がそれほど資本蓄積に取り組まねばならないのか。
これは婚姻のモラル、道徳・慣習がさらに崩れ去り、男女の経済的な扱いの平等化も進んだ先には、婚姻が購買でなくなる日も来るだろう
婚姻は単純なマッチング問題として扱えるのかというのは疑問
低い年収の人にはそれ相応の最適なマッチングが設計できるということはないと思う。
マッチング理論は経済学で最近流行りっぽいけど、そこら辺詳しい人いたら教えてください。自分はあんま勉強してないんでわkらないです
生きる意味わからん的なこと
何故生きているのだろう的なことをまた考えていた
正確には考えるというより感じていた
少なくとも理性的には回答し得るはずのこの問題だが、とりあえずの答えは理由をつけようと思えばつけられる
曖昧な奴で言えば「世界をより良くする」「不幸を無くす」「楽しむ」「女」とか
私が言いたいのはそういった「現世的に閉じた」生きる理論などではなくて、私の心が感じ取っている虚無に対する最終的な解決である。
これはもはや出家しろとかそういうレベルなんだろうが、特に出家したいみたいな欲求も無いし、自分が今なにか瞑想修行をセルフでやっているわけではない。
去年は瞑想指導を受けたりしたが、結局続かず、その後指導してくれる人にも会いに行っていない。
では私は心の平安、悟り的な何かを放棄してしてしまっているのか?なぜ?
かくも不安や緊張、苦痛の多いこの世界で、悟りを目指さずに正気でいきていけるだろうか?
それについて自己分析をする。
まず、人間の性質として
・ルーチンの中に放り込まれると不安を無くす
というのがあると思う
さらに
・生物的欲求を満たしたい限り、意味は必要が無い
という第二の人間存在の性質もある
これは動物や植物、すべての生命体に備わる基礎的な「生きる力」である。これなくしていかなる生存競争、その結果の多様性もあり得ず、すべての生物は勝手に死んでいくのみである。
では私は今これらの2つの要因によって、生きる意味への問から「逃避」「避難」することができている状態なのだと思う。
それは「望ましい」か「望ましくない」か
こういったことに悩んでいるのだから、本来望ましくないと私の深層心理では感じ取っているのであろう。
世の中の多くの人間にとって生存理由、レゾン・デートルの問というのはほぼ上記理由で解消、疑似消滅してしまっているのだ。
つまり生きる意味からの逃避でもあり、避難でもある。
生きる意味の問は我々を丸裸にし、世界の本質にある無根拠さ、残酷さ、無意味さから目を遠ざける。我々は我々の閉じた世界で生きていることが幸せでもある。
しかし、限界状況が起きた場合、これらの意味が強く求められる
病気、事故、家族や恋人、友人などとの離別
失業、経済的困窮
戦争、生命の危機
こういった場合に陥ると、我々は驚くほど明晰に
「なぜ生きているのか」を考え始めるのではないか
私はいま、そういった限界状況と、ルーチンな日常とを行き来しているのではないか。
ルーチンな日常では、その行いをきちんとこなす必要があるから思考は停止される。また、限界状況は人間を著しく強いストレス状況下におき、精神を侵していくために、なるべく避けられる。
そういうリズムが存在しているのではないかと思われる。
こうやって考えてみると、人間というのは一体何なのだろうかと思う。動物、生命体として維持していくためにルーチンが必要で、それなくして基礎的な物質的基盤は維持されない。だが、一歩でそれらの基盤を「維持させ続ける理由」、そもそも「なぜ物理的に維持しなければいけないのか(何故生きるのか)」という問もそばにあり続ける。
そしてそれは光と影のように、生物本来の「生と死」という宿命から逃れられないように、表裏一体なのである。
病気は不幸、不幸で避けるべき。貧困も、孤独も、忌まわしいもの。ネガティブな思考も人生に有害なもの。
だがそれら全ては人生本来に備わるもので、誰もが避けられない。
病人をいくら嫌い憐れもうとも、数十年、あるいは数年で自らも同じように死へと向かっていく。その基本的な事実から目を背けており、では病人はそんなに悲しいのか?死ぬのは、病気は自然現象なのに、なぜ受け入れること、当然であることを認めたがらないのか?
そうとも思う。
人が死んだら、それは自然のことだ。
死ななかった人がいたら異常だ。
生きる意味がわからなくて、それを問うのも普通だ。なぜなら数千年以上前から人類はそうしてきたからだ。
だから、だからどうなんだろう
結局、生きる意味が無いのが普通ってことで、苦痛とか人生の嫌なこととかすべて耐えて死んでいこうっていうのが、普通なのかな。。
じゃあ僕達がやっている日々のルーチンって一体何なんだ。お金を稼ぐとか、結婚とか、子供?名声とか?長生きとか
一体全体、なにをやっているのか誰が理解しているのだ
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「007 スカイフォール」:もはやスパイ映画は時代遅れだ
007、スペクターが最近上映されていましたね(まだ見てない)
ストーリー上、先に公開された「スカイフォール」が関連があるらしいのでそちらを見ました。
Amazonプレミアムで無料だったからというのが本当の理由ですが。
いままで007シリーズは結構見てきたと思います。もちろん最近のもので、ピアース・ブロスナンとかのやつなんですが、やはり王道スパイ映画、アクション映画で、善悪もはっきりしていたように思います。
スカイフォールは、いままでと違うんです。
まず、MI6が非常に弱々しい組織なんです。トップにいるMという女性(ママと呼ばれる)は、意固地でミスを誘発するタイプで、それがきっかけで政府の審問会に呼ばれるハメにもない、事実上引退を勧告されているようでした。
そして、007は冒頭で仲間に撃たれて川に流れて行方不明。仲間もヘタレなんですね。
そして悪役がすごい。元MI6の諜報員であり、MやMI6に強烈な復讐心を持ったキャラクターでした
MI6に見捨てられた過去と、壮絶な苦痛の体験から生まれたと思われる復讐の情念が垣間見えて、狂気を感じます。
彼はMI6本部のシステムをハッキングし、情報流出させたうえ、爆破テロまで仕掛ける奴。
彼の言動は面白かった。ああいうイカれてるキャラって、ダークナイトに出てくるジョーカーのような奴でした。
世界は変貌し、かつての古い「スパイの黄金期」というのから転換しなくてはならないMI6と、007の老いていく体。もはや古い世界の存在である彼ら。そして007という映画がもはや賞味期限であると言わんばかりの、自虐的なセリフの数々。 可哀想になってきました。
そんな年老いた007。なんとか老体に鞭打って頑張ってましたね。最後の籠城作戦は見事だったと思う。
「これが一流ハンターの戦い方だ!!(違」って感じでした
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スペクターも見てみようと思います。
幸福とは何か
出世間とは、社会に参加しないことで、社会から得られる一切の価値体系を放棄することである
通常の価値体系、いわゆる世俗的幸福を破棄する
出家というのはそういうもので、本質は「絶対的幸福」である
ブッダの得た幸福とは我々が日頃気にしてあくせくしているような、そういった小さいゆるぎやすい幸福ではない
揺らぐことの無い、世界に普遍した幸福概念である
我々にとって生きるとは、幸福とは一体なんなのか
僕は脳を取り出してキモチイ信号を脳に与え続ければ幸福だと思う
それ主観的に気持ちいいし、なんら不安も苦痛もない。まさに幸福だ
ではこれと「本当の幸福」とは何が違うのか?
違わないと思う
それはなぜか、
「気持ちよさ」「快適さ」を幸福と同義にしている根本からの過ちである
無明、無知と言えよう、
快適さ、他者から見た心地よさ、
それらはなんら幸福ではないのだ。
本当の幸福を生きて行くにはどうすればいいかを探求し続けるしかない
もう誰かが教えてくれる幸福とかにこだわるのは嫌だ
人はすべて死す
今年30歳になりました 早生まれなのでだいぶ長かったけど 去年は1年、なんかすごい危機感というか、プレッシャーでした たいしたことはしてないけど 30で人生半分くらいにはなるじゃないですか。 自分が30になるとか、信じられません ミサトさんもリツコも加持さんも30ですが、彼らが大人ぶっても内心そうではなかったのがわかりました。 というか、大人ってなんなんですかね?正直、年齢相応の振る舞いというのが糞だと思っていて、日本社会ってオワコンかなとか思う 年下のできる人はいっぱいいるし、彼らに学ぶことは進んで学んでいきたいし。年上だからってそういう扱いされるのも微妙だし だけど、やっぱ僕は一回死んで30くらいからやり直しなのかなとか思います。 いや、いままでの経歴とか病気とかなくならないのでかなり不利なスタートですけど。でも生き返ってやり直し さあ、どうしますか。不安ですか。でも人間簡単に死ねますし、死にたくなくても死ぬんですよ 100年後には100%死んでるんだ 誰一人この世に残ってないよwww そう思うとウケるんですよね(笑 いや、100年後、誰も生きてないんですよ??冷静になってみてください。 そんな究極の真理が明白に存在するんです その視野に立ったら、そもそも僕らの人生ゲームってなんなんですかね?って思います。 自慢したいですかね?そんなに。自慢気に、自信ありげに 100年後そんなの誰も気にしてませんよ。 そうやって全てを無に還元して考えたりすると、非常に落ち着くんですよ。 よくあるじゃないですか、毒薬を常にポケットに入れて、いつでも自殺できるって思ったら落ち着くみたいな話。 それに近い みんな絶対死にます。これはハズレのない言明です。 よし、じゃあ、なんですかね。生きてるってなんですかね、 本当わからないので、これから人生なんか、苦しんで死ぬかもしれないけど、まあ所詮最後は死ぬんですよね 落ち着きましょうね、この真理の前にすべては無力です。
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岬ちゃんのこと(「NHKにようこそ」2次創作SS)
僕が彼女と契約したのは、95年の寒い寒い冬だった。なんのことはない、普通の雪の日だった。 だが僕達は全く普通でなかった。いや、そう思いたい、ってことか。
僕と彼女は付き合う、、のでなく、お互いの命を人質にする契約をした。つまり、どちらかが死んだらもう片方も死ぬ。僕が自殺したら岬ちゃんも死ぬし、岬ちゃんが死んだら・・・たぶん僕も死ぬことになる。けどまあ、それは重要ではなくて、岬ちゃんの自殺を食い止めるには僕が自殺しちゃいけないんだってことが重要なんだ。 だから僕らは、陽気に生きなければいけない。そう、僕らは人質なんだから。
でもさ、待てって。俺たちって何にも解決してないじゃないか? 僕は相変わらず無職だし、岬ちゃんはよくわからないけどメンヘラだし、もう約束なんて忘れてるんじゃないかってくらい、リスカの写真が送られてくる。 はぁ、、、やはりひきこもりの無職ニートにはなにもできないんじゃないか!!ちくしょう!!
僕は確実に死に向かっていた。僕も真似をしてリストカットというやつをして、岬ちゃんに送ってみた。 結構本格的にやったんだぜ!うおおおお送信だ!! 夜中にキメた薬でハイテンションになっていた俺は、意気込んで送信した。 ああ、気持ちいなあ?これが生きてるってやつだよなあ?岬ちゃんはこれを求めていたのかぁ。なかなかだぜ。いい度胸してんなあの娘も。近頃の若者にしてはキモが座っている。
だが、だが、だが。
痛い
「めっちゃいってえええよ!! ふざけんなよ岬!! なにが死にたいだよ!こんなんで死ねんのかよ??無理に決まってんだろ!!痛い痛い痛い痛い!!もう痛いだけじゃねえか!!金返せ!!!」
そう心の中で叫びながら、ボロアパートでのたうち回っていた俺だ。
返信は 「痛そうだね」
はぁ???痛そうだねじゃねえよ!なんかそれ以外の人間の感情ってあるだろうが!俺はいつも優しく、ジェントルマンな感じで労っている(ふり)をしているだろうが!!そっちもそれくらいはなあ!礼儀ってもんがあるだろ!
これが、次の年の冬だった。
内向型人間の時代
スーザン・ケイン「内向型人間の時代」
あったので少し読んでます。わりと面白いので自分でも文庫版購入
アメリカという外向型人間の社会にあって、内向型人間の持つ価値というものに焦点を絞って、社会・文化・心理学的などの多くの側面から書いている
基本的には、内向型人間はアメリカでは成功できないしビジネスでも成功できない、という現状認識があるようです
これは日本でもコミュニケーション力重視とか言われるから同じような時代になっているのかと思う
ただ、アメリカ的な外向性と日本的外向性は違うと思うので一概にはわからない
特に、日本・韓国・中国などの儒教文化圏において「沈黙は金」の文化について、アメリカでの不遇を描いている。能力は優秀な者が多いが、いざアメリカの企業での仕事となると、必要な能力に「べらべら喋る」というのが加わってくるし、1人でいるのが好きな人は基本ダメみたいな文化だから排除されるらしい。
ヨーロッパでもアインシュタインや、インドの例でガンジーなども典型的な内向型人間で、まあ頑張れば理解されるしカリスマにもなれるという。
確かに、世界で評価される日本人というのは基本は作品や仕事内容であり、そういう点で彼らは最初から
「ベラベラ自己アピールしなくてもいい」(アメリカ人がすでに評価してくれてる)
という下駄を履いた状態でアメリカに行くのだ。
まず日本的文脈で評価を得ることさえできればいい
だから0からアメリカで自己アピールしまくってビジネス的にガツガツしまくって評価を得るようなのとはわけが違うとは思う。
ハーバード・ビジネス・スクール(最近話題)に行ったアジア系留学生のインタビューでも、やはりHBSは異常なほどコミュニケーションや放課後交流を重視しており、ほぼ社交する場と化しているようで、これはそういう志向の無い人にはキツイ。そもそも何しに来たんだ状態である。
確かにそうでもしないと卒業後にアメリカで活躍なんてできないわけだから仕方ないとは思う
日本のMBAに価値があまりないのは、そういった総合での「人間力」的なものを重視してないで授業中心だからだろうか
学生が発言しなくなると、教授自身が評価を下げられるらしい。だから必死で発言させたり外向的な振る舞いをさせようとするという事態が発生している。
ただ、この本でも言及されているリーマン・ショックを予知した人々の志向は完全に内向型人間だそうだ。投資家のウォーレン・バフェットなどもそういった傾向があり、投資で成功するのは内向型人間であることが多いという研究結果もあるようだ。
周囲の判断や勢いに飲まれずに、自分の中で沈思黙考して論理を構築して投資判断をするという資質は、ほぼ性格的な外向性・内向性の度合いと相関しているとか
感情を抑制するという、アメリカではネガティブに取られがちな傾向は、投資においては重要な姿勢であったりするし、アスリートとか学者とかもそうなんだろう
内向型人間のすごい力 静かな人が世界を変える (講談社+α文庫)
- 作者: スーザン・ケイン,古草秀子
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- 発売日: 2015/12/18
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