滑空①

……洋上を走る滑空機のようなものが見える。
 
それは編隊をなし、地平線のかなたまで何も見えぬだだ広い海を一定の高度で進んでいた。
 
薄く青い煙を不気味に放ちながら、静かな音で進んでいる。
 
「大世界転移」の起こる前、この地球は丸かった。人々は海を渡り、世界を一周することができたという。海と海はただの隔たりでしかなく、多くの国は交易で栄えていた。
 
しかしそれを知るものは今はいない。大昔の航海士だった僕の家系ではその昔の海図を大切に保管していたが、奇妙にそれは平面に書かれていた。その端と端は繋がっていたというのだ。
 
世界が転移して以降、それは数千年も前のことだが、地球は平面になった。いや、それが平面であることを確認できた者はいない。何しろ海の向こうから帰ってきたものはいないのだから。
 
空の向こうには星々があり、宇宙があった。実際に宇宙にいった人々もいたらしい。しかしいまや空は時折明るい時間を持つのみで、星などは見えぬ暗黒の世界だった。
 
科学者によれば、宇宙は物理法則の高次の乱れに見舞われ、いままであった秩序はすべて破壊されてしまったのだと言う。この地球がかろうじて生き残っているのも奇跡かもしれず、またいつこの空間そのものが崩壊するかも予測ができなかった。何しろ数千年前の物理学は一切役に立たなかったのだから。
 
かろうじて重力と呼ばれるものがあり、物質と呼ばれるものがある。そしてなんとか人々は暮らしていた。
 
いま、僕が乗っているこの艦隊は、無謀にも海を渡ろうとしている。無限とも言えるこの世界で、かすかな希望をもとに、精鋭の乗組員たちと、わずかな科学者、戦闘員、そしてなぜか僕を載せて、日夜ある方向へと滑空しているのだ。

ベーシックインカムは「隷属への道」なのか?

働きたくないので、ベーシックインカムには賛成だが、ベーシックインカムのシステムは国家への隷属の道であるとも考えている。
共産主義社会では皆が労働を行い、国がお金を支払う。
しかし、反政府的思想を持つ者たちはそのお金が権力者の恣意的な運用によって支給されず、健康で文化的な最低限度の生活なども無視され、政治犯として収容所送りになったりする。
フリードマンが『資本主義と自由』の中で述べているのは、もし資本主義社会であれば、彼は自分で経済的に自立する手段を確立しうるし、また、寄付などによって彼の政治活動は存続もし得るということだ。
資本主義国家でなければ、政治的な活動を「自由に」行うことができない。
これは歴史を見れば明らかだ。ソビエトや中国で数多くの反政府思想を持つものが追放、処刑され、北朝鮮でも同じようなことが起こっている。
つまり共産主義は独裁への道だったのだ。
ベーシックインカムも実はそのような危険性を孕んでいるのではないかと思う。毎月政府にお金をもらうようになってしまったら、反対運動や言論を自由にすることはできなくなるだろう。
それらの自己規制はやがて全体主義国家への道となるような気がするのである。

 

 

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

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隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】

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隷従への道―全体主義と自由

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暗号通貨と自由

ゲームプレイ用に買ったグラフィックボードで仮想通貨のマイニングも始めた。

久しぶりにやっている

Zcashという匿名性の高い謎のコインがあり、それがそこそこ掘れるらしいからやってる。

いま1コイン単位で2万円くらいになっている

最近のここらへんの話題はついていけてないので頑張って勉強しないといけない。

匿名技術というのは今の世界で重要なテーマになっていて、もちろんそれは政治的な背景を強く持っている。

プライバシーの権利を侵害することが堂々と行われている事実があらわになってきて、保安のために個人の自由を侵犯しているところだ。

ビットコインや暗号通貨技術の大きな特性は、その匿名化技術にある。または、単純に言えば、現代ではAmazonで買ったものはそのデータを調べれば政府が簡単にわかってしまう

送金購入手段、履歴データを政府が抑えるということは何を意味するか?
これは経済的自由の侵害である

ミルトン・フリードマンはその著書『資本主義と自由』の中で、経済的な自由権の喪失は政治的自由を失うことになると述べ、共産主義勢力を攻撃した。

それと同じことが、いま「資本主義国家」で行われようとしている。ポスト資本主義国家は監視をベースにした経済的な不自由、個人の思想や活動への過大な干渉、政府による恣意的な制裁。つまり権力の乱用という事態に至っている。

経済的自由<=> 政治的自由 <=>思想・言論の自由 <=>内心の自由 <=> プライバシーの権利

などと複雑に相互は絡み合っていると考えている。

 

 

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

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メモ:「<オタク>の逆襲」

「<オタク>の逆襲」というタイトルで短い文章を書きたくなったが、適当にメモ。
 
<オタク>とは90年代に「オタク」と呼ばれていたものであり、今の時代の「オタク」という言葉の意味するものとは異なる。
 
つまり80、90年代にあったオタクカルチャー、SFカルチャーが一度軽く死んだ。
 
しかし、いま復権しつつあるのではないか、という話
 
最近上映された「BLAME!」の映画版を見て思った(原作とは印象がわりと違ったけど世界観は一緒)
 
これはNetflix配信も決まっていて、海外にもファンが多いらしい
 
 
などなど、熱い作品がいっぱいあったのに、なぜいまのアニメは「つまらない」のか
 
答えは一つ
 
「日常系」だから。
 
アニメは大衆化し、陳腐化した。
 
そしてかつてのアニメに「オタクが熱狂した成分」とは何か。
それは
「世界への総合的な理解、世界への総合的な改変の欲望」
であると考えている。
 
政治や国家、戦争、SFによる未来の破滅した地球の描いていたものはまさにリアルからの延長で、切迫した想像力が生み出したものだ。
 
いま閉鎖しているように感じるその想像力は、90年代を過ごした世代、それ以前からいた世代によってまた再生産される。
 
文化はこのままでは死ぬというか、まったく面白くない。海外ドラマを見ていたほうが面白い
海外の映画を見ていたほうが面白い
 
しかし虐殺器官BLAME!を見ると、
 
「日本人だけでほぼ作ってるアニメ」であり、なんだこの単一民族国家、やばいなと思う
 
世界中の才能が集結しているアメリカの西海外でさえ作れないものがここにある。そしてそれらは90年代にすべて源流があった。
 
そう思うと、なんとも不思議な反動を感じる。
 
行動が大事だと言われてデモがあり、それがうまくいかないことや、そもそも世界像・政治像を失った市民たちは日常系のドラマやアニメに退避した。自分たちの幸せを守ることすらできず、政治や国家、世界に対する創造性を失っているのだ
 
あと小島秀夫もいるんだけど、彼は50代だから庵野秀明と同じくらいの世代、それくらいの時代を生きた人間の政治的な経験とか歴史のリアリティがいまの作品の源流になっている
 
あとは単純にSFが黄金期だった。様々な一流作家がすごいSFを作ったり、映画化されていた時代。
 
それもいまの時代状況とだいぶ違う点である。ハリウッドがつまらなくなったということだけど。良質なSFが減った
 
見る人も少なくなった
 
【ポリゴン・ピクチャアズ 守屋秀樹氏 × Netflix ジュリアン・ライハン氏トークイベントレポート】 劇場上映・Netflix配信を同時に!「劇場∞Netflix」プロジェクト - クリエイターのための総合情報サイト CREATIVE VILLAGE
 

映画「Moonlight」を観た感想

「Moonlight」はアメリカの貧困地域の黒人コミュニティを描いている

主人公の少年がいかにしていじめられて無気力になって成長していくか、という描写をひたすら描く。ゲイであることは問題の一部でしかないかもしれない。

そういう意味で、イデオロギーばっているわけでもないし、なにかの道徳性を押し付ける映画でもなく、結論がハッピーであるかもわからない。それがすごく良いと思った。

アメリカという国で、白人と黒人で分断されているというのもよく描かれている。白人の人物はほとんどゼロ。貧困地域で、黒人しか出てこない映画なのだ。現代のアメリカを描いた映画なのに。

これがアカデミー賞??って前半は思ったし、アカデミー賞と聞いていなければ20分くらい観て辞めてしまうだろうなと思った。黒人社会のドキュメンタリー風映画だから娯楽性は少ない。それこそ「ラ・ラ・ランド」みたいなミュージカル演出もエンターテイメントな演出も皆無。恋愛も皆無。本当に皆無なのである。

でも、これがアカデミー賞に選出された理由は見終わってよくわかった。これは文句なしに素晴らしいなと。

いまのアメリカだからこそ、こういった「苦しむ人間の姿」を人種的な偏見や性指向の偏見への差別を踏まえて、空気を写しているかのように、自然と、ウザくなく描写する。だけどどうなるのだろうと観客すべてが息を飲む。

そんな映画なのだ。

日本人だから黒人社会のことなんて見たことも無いしわからないけれど、そこで描かれているのははるかに政治を超えた政治のように思える。

黒人のための黒人による映画。

すべての人種、差別を受けている、それでも死なずに生きている人のための映画。

上映部屋も小さく。人は多くなかった。カップル向けでも無い。
受賞後の日本版のPVは反吐が出る作りだった。

 

受賞前のコレのほうがいい

 


アカデミー賞候補作!『ムーンライト』本国予告編

男らしさと弱さ

「男らしさ」が苦しい男たち。なぜ男性は自分の弱さを語れないのか? https://www.buzzfeed.com/satoruishido/otoko-mondai?utm_term=.hcb2xpadX

 

これを読んでの雑記。

 

歴史的に言えば、文学(文字表現に限らず)は弱音を吐く場所の一つだったと思う。

 

文学や映画なども基本的には男(みんな嫌いな「おっさん」達)がマジョリティで制作される世界なので、そこでの男の自意識の中には当然苦痛を語る当事者がいる。

 

 その饒舌さというのも基本的には文学やサブカルチャーでしか引き受け先がないので、うまくそれを表現した作品(エヴァはまさにそのキラーコンテンツ。あと新海誠。)が大ヒットしたりする。(太宰治とかはどの程度かよくわからないが。)

 

2000年以降自意識系やセカイ系(まさに新海誠!!!)として揶揄され殺されてしまった当事者の弱音というのは確実にあって、以前抑圧構造を保ったまま存在し続けている。

 

参考

https://togetter.com/li/1022432

 

@hazuma

シン・ゴジラ君の名は。を見て思ったのは、ひとことで言えば、オタクの時代は終わったんだなということですね。第一世代のガイナックス系オタクと第二世代のセカイ系オタクの想像力が、同時に社会派になりリア充化し、オタク特有のぐずぐずしたどうしようもない部分がすっぱり消えた。

 それはいいことなのかもしれないし、悪いことなのかもしれない。いずれにせよ、長い間オタクコンテンツを見てきた1971年生まれの人間としては、今年はのち転機として振り返られる年になるだろうなと思い、自分の人生と重ね個人的にいろいろ感慨を深めました。

セカイ系美少女ゲームの想像力がリア充キャラを主人公に据えることで奇妙にも国民的評価を得てしまった、という渡邉くんの分析はまったくそのとおり。ただぼくは、この「あと」になにが来るかという点では楽観的ではない。君の名は。は、一つの時代の始まりというより終わりを告げる作品に見えた。

 

ネットの虚しさ

他人に認められたい、他人に同意してもらいたい。

最近そういうブログや記事ばかりでうんざりする。
もっと自分の内面をさらけ出して、それでもいいじゃんと

僕は居場所が無くなったと思う。

以前ブログやっていたときのようなネット空間ではなくなった
TwitterFacebookも、息苦しい。

ネットで何も報われない、救われない。

そういう感覚しかない

いくら何を問うても、帰ってくるのはエコーばかり。同情が欲しい、そうなんだろうね。