映画「ハードコア」視聴2回目 (ネタバレあり)
ハードコア(Hardcore Henry)」再視聴。
改めて、名作であると思った。
本作品は全編FPS視点で描かれるSF作品。(ロシア、アメリカ共同制作)
また、全編で主人公は一言も喋らない(声帯機能が壊れているという設定)
顔もわからない。
ずっとFPS視点で主人公が誰なのかわからず、本人も記憶を失っている。
この作品の良さはラストでわかった。私はラストに感動して泣いてしまった。(グロいけどね)
主人公が宿敵エイカンに完膚なきまでにやられて死にそうになっていた時、父親との断片的だった記憶が、蘇る。
倒されてちょうど鏡に写った自分の顔を見る。ここで途切れていた記憶の続きがわかる。
いじめられていた子供時代。いじめられていて殴られ、倒れていたところを父親が呼びかける。
俺はお前を弱虫とは呼ばない。お前を愛している。しかし、お前がどうするか決めるんだ。倒されて血を流したままでいるか、立ち上がって相手に血を流させるかだ。
文章だけではわかりにくいが、この物語全編の意味がここでわかってきて、すごく心に響いた。
あらゆる状況が不条理そのものの主人公であり、騙され利用されていた。
必然的に沸き起こる悔しさ、憎しみ、深い悲しみ。
父親の言葉の意味は、山谷の労働者運動における「やられたらやり返せ」のようなシンプルなもので、報復を促すものである。この物語が意味する報復とは、自己の尊厳のための闘争であり、人権を踏みにじられた人間による革命のようなものだ。日々生きる自分にとっても、悔しいことや悲しいことに立ち向かわなければいけないと思わされた。そういった意味に気づいたところで、この映画は終わった。
この映画全編に存在する激しいエネルギー。描写の激しい残酷さのもつ根底の意味というのは、これら報復のエネルギーと共に存在しているのだ。
ちなみに、hardcoreという言葉の意味だが、辞書によると
・中核派 (政治用語)
・道路の底石 《れんがや石のかけら》
・徹底した,筋金入りの
などの意味がある。
映画自体が徹底した描写を持つものであるが、結局ハードコアとはなんなのか?
底石のことか?とも思った。
主人公はまさに、どこにでもいる石のかけらのような小さな存在でもある(結局どこの誰なのかは最後までわからない)。しかし、闘争をする固く強い意思を持っている。
それがまさに道路の底石の底力であり、Hardcore Henryなのかもしれない。
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「恋愛の問題」と「結婚の問題」の違い
恋愛の問題が性欲の問題なのか実存の問題なのかわからない。
恋愛を結婚に置き換えてもいいんだけど、複雑な要素が多すぎてだいぶ事情が変わる。
恋愛と結婚は違うというのはまさにその通りなので、両者によって解決される問題とそもそも解決を狙っていた自分の問題、というのもターゲットが異なると思った。
今の自分には結婚で実存が救われることは特に無いと思われる。むしろ労働の義務の強化や、金銭獲得義務の強化、使用するエネルギー問題などによって自分は幸福度が下がるのではないか?すら思われている。
恋愛が性欲なのか実存なのか?って正直この歳で悩む問題では無いんだけど、性欲が解消されたらぐっすり眠れて悩みなんか無かったように感じるっていうのがたまにあるので、現象面としてはれっきとした重要な問題になりうる。
これは敷衍すると、AI(二次元キャラでもAVでもなんでもいいです)と恋愛をしてAIと肉体関係が持てて性欲解消できれば何も問題がないのではないか?という問である。
世間一般の「それじゃあ家族は作れない」とか「それじゃあ人間同士の本当の繋がりが作れない」「それじゃあ老後守ってくれる子供がいない」っていうのはそもそも論点が異なっており、上記の「結婚」の方の問題なのである。
結婚の問題は結婚の問題として語ればいいと思うが、一般的にはAIによる代替の中に結婚機能の代替は含まれてないでしょう。ヒトを再生産できないんだから。
ブッダたちの仏教
並川 孝儀 『ブッダたちの仏教 』を読んでいる。
昨年12月発売なので新しい。
初期仏教経典の研究者が一般向けに書いたものらしい。
内容ざっくり理解していると、どうも初期仏典と大乗経典を同列に置きたいロジックになっている。
昨今の初期仏教ブームにより、
大乗仏教(そもそも大乗経典)<<<<<<<< 初期仏教(初期仏典)
に価値がシフトしているのではないか?と思う。
大乗非仏説と言うのは昔からあるが、最近は上座部系の指導者も日本にたくさん入ってきているし、瞑想技法も普及してきている。自分もパーリ語を学んだり少し初期仏教の瞑想を体験したりしたが、日本仏教における仏教観とは根本的に異なるものだと認識している。
つまり初期仏教が原作なら、大乗仏教はメディアミックスされた2次創作、コミケ同人レベル(出演キャラや用語は原作っぽいけど、実際かなり違う)だということだ。
そういう流れもあるのだが、並川の研究というか他の本などでも書いているのは
「そもそも初期仏典すらゴータマの教えと言えるのかすら怪しい」
という話である。「ブッダたちの」とあるように、ゴータマブッダが仮に実在したとしても、彼の弟子達が数世代、数百年を経て編纂されたのが初期仏典であり、そこには多くの創作・追加要素があるということだ。そしてそれらのうちどれが「真のゴータマver1.0」の教えなのか判別が付かない。
推察できるのは、アーナンダなどに代表されるゴータマの弟子も同様な悟りの境地を体感し、それを弟子たちにも達成させ、その体験と感覚、言い伝えなどが数百年かけて体系化され、創作され、伝承されたということだ。では実際のブッダは本当は何を悟り何を言っていたのか?もはやわからん。
しかし仏教の基本的性質からして、すべての覚者(ブッダ)は同列の地位にある。ゴータマ(初代ブッダ)と数百年後の覚者(ブッダ)は同一視できるというロジックがある。
だから結局はオリジナルブッダが何を体験したかは弟子たちのフル主観解釈に委ねられてしまったということである。
このフル主観解釈が行き着く先は大乗経典、大乗仏教における
「これが俺の考えた最強の仏教だ!!」シリーズである。
日本仏教はほぼこれである。
そして実は初期仏教も日本仏教も等価であるということを筆者は言いたいらしい。(日本仏教界的には無難である)
そこは正直あまり納得できないが、幸せになれる人がいればその人にとってはそれが最強の仏教なんだから良いんじゃないかとは思う。とは言えそれはブッダの教えなのか?については疑問だ。
輪廻転生に関する諸論点
私がブッダの(大乗仏教の?)輪廻説を受け入れ難いと思う理由にはいくつかある。
それを書いてみる。
1.地球の中でのみ転生するのか?
輪廻転生体験として話される逸話は基本的に地球上の過去の話しかされない。異なる惑星の命として存在していた記憶の体験談などはない。なぜ地球に限定される話なのか?
=>デマ、妄想だから、地球の歴史でしか語れない?記憶として勘違いされているだけで、実際は記録・テレビの放送内容などから作られた物語・デマである可能性がある。
2.生命個体の分割について
生命の1個体の単位は恣意的である。人間を形成する細胞は一個一個が生命活動をしているため、本来生命は分解可能であると思われる。その場合、私という1個体の生命は見方によれば60兆個の生命となってしまう。では細胞一つ一つに「前世」なるものが存在し、細胞分裂によって増えるごとに生命は生まれては消えるのだろうか?
3.生命の個体数は増えているのに輪廻だと増えていかない
輪廻を前提とした場合、歴史上のある時点と現在における生命の総個体数は一定でなければならない。しかしそれは到底考えられない。人間に限定した場合の輪廻の場合、人間の爆発的人口増加に輪廻説は耐えられない。過去の1個体が分割される場合や、無からあらたに魂が生成される場合なども考えられるが、それを証明するのは困難である。
また、無から生命が生成されるとした場合、輪廻転生説そのものの逸脱ケースとなってしまう。(輪廻転生は宇宙開闢からの生命創造を前提としている?)
VRとエロ
エロゲーをやるためにHTC Viveを試しに買ってみた
しかしCPUがヘボすぎてまともに動かなかった。
いくつか思ったことがあったのでかいている。
・VRはそもそもエロに必要なのか?
VRが必要だと言いたい理由にやはり臨場感や没入感等が上げられる。だが個人的には、それらの臨場感・没入感は単なる視覚的なものである。視覚的なものから一切外部へ向うことのないエロのモーメントである。つまり触覚や嗅覚を始めとして相手の物体性への知覚がすべて「欠落」しているのだ。
これで人類補完計画は起こり得るわけがない。「他者と溶け合う」のが人類補完計画だからである。
よってそもそもVRに原理的な限界点のようなものが存在する。そこへ一旦到達した人間はどうなるか?リアルの「接触」を求めるのである。つまり風俗、つまり援助交際なるものである。
・触覚は技術の進歩が補うのか?
これに関しても否定的に思う。まあ仮にアクチュエータやモーター制御が進歩し、いまの売られている精巧なドール類をセクサロイドのように扱えるとしよう。
しかしそれらは永遠に自然なものとはなりえない。なぜなら「自然」の定義は「人間そのもの」であり、人間そのものはディープラーニングでは完全に模倣も予測もできない存在だからだ。つまりディープラーニングは「他者」を作ることはできないと私は考えている。
以上の2点がまずエロVRにおける原理的な困難である。
もう一点の論点として、「AIとの恋愛」について
映画『ブレードランナー2049』ではホログラム状のAIと主人公のラブ・ロマンスのようなものが描かれた。AIは人格を持った強い人工知能(セクサロイドの完全ホログラム限定版)。
そこで生じた恋愛こそ私はエロVRが乗り越えられなかった境界を超えたと感じた。
しかしAIのホログラムは肉体を持たないため、性交渉にいたることができないという困難を抱えている。そこでAIが考えだした解決策が「セクサロイドを金で雇う」である。セクサロイド(作中ではレプリカント)は愛情が欠落したドールである。そのドールを部屋に呼び、ホログラムを完全に投影してしまう。それによって擬似的にだが性交渉に至ることができたという話である。ここもAI自身はそれを必要とはせず、単に相手に対するサービスとしてそのようなことをしただけであるという点が通常とは異なるが。(AIは現実の触覚を持たず、一切干渉することができない)。
つまりVR的なものとして求められていたものが、実は単にホログラムであり、それが別の手段としての現実ー仮想現実投影技術によって結び付けられた、という複雑な描写である。
単純に言えば、ちゃんとした本物の人工知能でさえば、そこのインタラクションは乗り越え可能であるという話であろうか。
ココらへんの話は完全に蛇足であったかもしれない。